初期の経歴と軍歴
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「ウィリアム・ジャクソン (書記官)」の記事における「初期の経歴と軍歴」の解説
ジャクソンはイングランドのカンバーランドで生まれ、両親が死んだ後で、サウスカロライナのチャールストンに移住した。ジャクソンは家族の友人であり、著名な商人のオウェン・ロバーツに育てられた。ロバーツは民兵大隊の指揮官だった。1775年に戦争が勃発すると、ロバーツが愛国者軍に加わり、ジャクソンも従った。おそらくロバーツが、第1サウスカロライナ連隊でジャクソンが見習士官になることを助けた。1776年5月、ジャクソンは少尉に任官された。 1776年6月、チャールストンの近くでジャクソンは初めて戦闘に参加した。彼の連隊はイギリス軍ヘンリー・クリントン将軍のサリバン砦攻撃を撃退した。この部隊はその後長期間チャールストン市の防衛に就き、その間愛国者のチャールズ・コーツワース・ピンクニーが第1サウスカロライナ連隊の指揮を執った。1777年遅く、ジャクソンはロバート・ハウ少将の指揮で、イギリス領東フロリダのセントオーガスティンに対する発想のまずい遠征隊に加わった。この遠征は見事に失敗し、アメリカ軍は病気で倒された。ジャクソンは生き残って1778年にサウスカロライナに帰った。 フロリダからの帰還後、南部の諸連隊はマサチューセッツのベンジャミン・リンカーン少将の指揮下に置かれた。ピンクニーはリンカーンに、北部人としてその南部の軍隊に関わる手助けを行う副官が必要であることを確信させた。ジャクソンがこの任に選ばれ、一時的に少佐の位に昇進した。ジャクソンはリンカーンの副官として、1779年のストノフェリーの戦いとサバンナ包囲戦に参戦した。1780年、リンカーン将軍は長きにわたったチャールストン包囲戦の後で降伏した。ジャクソンは捕虜士官としてフィラデルフィアに船で連れて行かれた。数ヶ月後、捕虜交換で大陸軍に戻された。 ジャクソンは有能な参謀士官として、ジョージ・ワシントン将軍の参謀に入り、将軍の副官ジョン・ローレンスの秘書を務めた。戦争中の多くの期間をローレンスと共にヨーロッパで過ごし、アメリカに戻ると短期間ワシントンの副官、およびリンカーンの陸軍省次官補を務めた。ジャクソンは1783年に戦争が終わると軍隊を離れた。
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初期の経歴と軍歴
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「フランシス・ニコルソン」の記事における「初期の経歴と軍歴」の解説
フランシス・ニコルソンは1655年11月12日にイングランド、ヨークシャーのダウンホームの村で生まれた。その先祖あるいは若年の頃のことについてはほとんど知られていない。ある程度の教育を受けたことは明らかである。チャールズ・ポーレット(後のウィンチェスター侯爵かつボルトン公爵)の小姓を務め、その庇護下に経歴が進んだ。ポーレットの娘であるジェーンに仕え、ジェーンがブリッジウォーター伯爵ジョン・エガートンと結婚して、エガートンがもう一人の庇護者となり、経歴を積むのに役立った。 ニコルソンの軍歴は1678年1月ポーレットがオランダ連隊での少尉の任官を購入したときに始まった。この部隊ではフランダースでフランスと対戦することになった。この連隊が戦うことは無く、その年の末には解隊された。1680年7月、新しく結成されたタンジール第2連隊の参謀中尉の任官を購入した。この部隊はイギリス領タンジールに派遣され、タンジール市を守る駐屯部隊を補強した。当時のタンジールの評議会はヨーク公(後のジェームズ2世)が長となり、総督はパーシー・カーク大佐だった。ニコルソンは軍務で頭角を現し、敵のモロッコの宿営地、タンジール、ロンドンの間で伝言を運んだ。カークからの友好的な評価に加えて、このことが強力な植民地担当大臣ウィリアム・ブラスウェイトの注目を引いた。1682年にタンジールが放棄され、連隊はイングランドに戻った。このタンジール任務の間に、北アメリカ植民地で著名になったトマス・ドンガン(ニューヨーク植民地総督)やアレクサンダー・スポッツウッド(バージニア植民地副総督)など多くの人物と出逢った。 1685年、タンジール連隊がモンマスの反乱を鎮めたときにニコルソンも恐らく連隊と共にあったが、カークの部隊における不穏当な振る舞いにおいて、ニコルソンが果たした役割は不明である。カークは、チャールズ2世から将来に期待されたニューイングランド自治領の総督に選ばれていたが、反乱を鎮めるときの役割を強く批判され、ジェイムズがその指名を取り下げた。その代りに総督職はエドマンド・アンドロス卿に渡され、このとき大尉だったニコルソンは歩兵1個中隊の隊長としてアンドロスに従い、1686年10月にボストンに行った。アンドロスはフランス領アカディアの実質的に偵察となる任務にニコルソンを派遣した。アカディアの総督に表面上は様々な問題に対する抗議の文書を運ぶという役割の下で、ポートロワイヤルの守りについて注意深く観察して来た。ニコルソンはこの任務でアンドロスに印象を与え、間もなく自治領の評議会議員に指名された。
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