植民地に与えた影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/21 14:08 UTC 版)
砂糖法は1764年4月5日に議会で成立し、経済不況の只中の植民地に報らされた。これは間接税だったが、植民地人はこの法の存在を十分に伝えられることになった。その理由の大部分は、七年戦争の間にイギリス陸軍に対する食糧と物資の供給に関わっていたことで植民地経済はかなりの分け前が得られたことだった。しかし、植民地の住民、特に商人や海運業者のように直接影響のある者達はこの目に見えて高い新しい関税の考え方が大きな問題の発端だと見なした。砂糖法に対する抗議が高まっていったのは、アメリカ人にとって主要な標的だった「代表なき課税」という憲法上の問題よりもむしろ経済的衝撃だった。 ニューイングランドは特にこの砂糖法から経済的損失を味わった。法の厳格な適用で密貿易は危険で賭けを伴うものとなり、植民地人たちは、ラム酒がもたらす利鞘はあまりにも小さく、原料となる糖蜜に税金をかけられたのではどうにもならないと論じた。多くのアメリカ人は価格を上げることを強いられ、市場では高すぎて手が出なくなる恐れが生じた。一方、イギリス領西インド諸島はこの時植民地の輸出品にしっかりと目をつけており、供給が需要を上回るように仕向け、支出を抑えることによって利益をあげた。このため、ニューイングランドでは輸出高が減少した。西インド諸島は、植民地に流通する硬貨の源流であったため、植民地における硬貨の蓄えが激減していくにつれ、地域通貨の健全性が脅かされた。 この法に対する抗議の陰にいた2人の主要な運動家がともにマサチューセッツ人のサミュエル・アダムズとジェイムズ・オーティスだった。彼らは代表権の無い議会で制定された法律が今後も植民地の経営を脅かすものと訴えて、植民地人の支持を得ることに成功した。1764年8月、ボストンの50人の商人がイギリスの贅沢品の購入を停止することに合意し、ボストンとニューヨーク双方で、植民地内生産量を上げる動きが起こった。散発的に暴力沙汰が起こり、最も著名なものはロードアイランド植民地でのものだった。しかし全体的として見れば、ニューイングランドでも植民地の他の部分でも、砂糖法に対してはまだ抗議運動はそれほどには盛り上がらなかった。強い抗議が始まるのは、翌年後半に印紙法が制定されてからである。 砂糖法は1766年に撤廃され、イギリスのものにしろ外国のものにしろ、輸入される糖蜜に掛かる関税を1ガロンあたり1ペニーに減額する1766年の歳入法に置き換えられた。これは、印紙法の撤廃とほぼ同じ時期である。
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