植民地におけるアヘン対策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 14:10 UTC 版)
アヘン戦争の敗戦以後、大量の中国人が東南アジアや東アジアへ移動しており、それとともにアヘンも拡大していった。 1877年にはイギリス商人によるアヘン密輸事件であるハートレー事件が起ったものの、治外法権を行使されて領事館から逆に1879年(明治12年)5月1日には薬用阿片売買竝製造規則(阿片専売法)を施行した。この法律において、政府は国内外におけるアヘンを独占的に購入し、許可薬局のみの専売とした。購入は医療用途のみとし、購入者及び栽培農家は政府による登録制とした。この専売制は日清戦争の戦需品として、政府に利益をもたらした。 日清戦争後、日本は下関条約により清から台湾を割譲させて植民地とした。当時、台湾においてアヘンの使用が広がっていたことを背景に、後藤新平は伊藤博文にアヘンの漸禁政策を提案し、1897年には台湾阿片令が敷かれる。同令において、アヘン中毒者へのアヘン販売が許可された。1898年の阿片令では、台湾における民間のケシ栽培は禁止され、台湾総督府専売局による専売が始まった。内地では、台湾産の原料を使ったアヘン製造が活発に行われた。 その後、植民地支配に組み入れていった関東州や満州においても、日本はアヘンを厳禁しない漸禁政策を採用した。1915年にはモルヒネの国内生産が成功し、モルヒネの原料としてのアヘンの需要が高まったため、関東州・満州でもアヘンは製造された。 中華民国は、日本と違い、アヘンの全面禁止政策を採用していたが、四川省・雲南省などで密造された非合法のアヘンが闇で流通しており、軍閥の重要な資金源とされていた。中国産アヘンの末端価格は日本産のそれの約半分であり、しばしば日本産アヘンを市場から駆逐した。日中戦争がはじまると、関東軍の影佐禎昭大佐の指導のもと、里見甫が秘密結社の青幇や紅幇と連携し里見機関を設立し、中国の通貨法幣を獲得するため、上海などでアヘンやモルヒネを大量に密売した。
※この「植民地におけるアヘン対策」の解説は、「アヘン」の解説の一部です。
「植民地におけるアヘン対策」を含む「アヘン」の記事については、「アヘン」の概要を参照ください。
- 植民地におけるアヘン対策のページへのリンク