植民地と独立戦争の時代
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「オレンジ郡 (ノースカロライナ州)」の記事における「植民地と独立戦争の時代」の解説
郡庁所在地であるヒルズボロは、グレート・インディアン交易路がイーノ川を越える場所に、1754年に設立され、最初はグランビル伯爵ジョン・カートレットの測量士ウィリアム・チャートンが所有、測量、地図化を行った。当初はオレンジと名付けられるはずだったが、総督委員会の委員であり、グランビル伯爵の土地に関する代理人の1人だったフランシス・コービンに因み、コービンタウンと名付けられた。1759年、トマス・チャイルドに因み、チャイルズバラと改名された。チャイルズは1751年から1760年までノースカロライナ植民地検事総長を務め、グランビル伯爵のもう一人の土地代理人だった。1766年に再度改名され、ヒルズボロ伯爵ウィルズ・ヒルに因みヒルズボロとなった。ヒルズボロ伯爵はイギリスの植民地担当大臣であり、ノースカロライナ植民地総督のウィリアム・トライアンとは親戚だった。 ヒルズボロは庁舎が置かれたピードモント台地では初期の植民地町であり、独立戦争前に幾つかの緊張関係を生む舞台になった。1760年代後半、ピードモントの農夫達と郡役人の間に生じた緊張関係が世直し運動、あるいは世直しの戦争と呼ばれるものになり、その中心にヒルズボロがあった。植民地西部の主にオレンジ郡、アンソン郡、グランビル郡の住民が、裕福な植民地役人に強い不満を抱き、彼等は残酷で、勝手で、専制的で、腐敗していると見なした。内陸部農夫の多くは税金を払えないと分かり、その結果資産を差し押さえられたことに怒った。地方の保安官は税金を自分の利益のためにとっておき、時には同じ税金を2度徴収することもあった。保安官は市民に課税するために意図的に徴税記録を隠すことがあった。その影響を最も強く受けた地域がローワン郡、アンソン郡、オレンジ郡、グランビル郡、カンバーランド郡だったと言われている。ノースカロライナの人口の大半を占める低層階級市民の闘争であり、人口の約5%しか占めていない富裕な支配階級が政府全体を支配していた。当時オレンジ郡の人口は8,000人と推計され、その6,000ないし7,000人が世直し運動家を支持した。 ウィリアム・トライアン総督がニューバーンに新しく知事公舎を建て、人目に付く散財を行ったことで、この運動の不満に火を付けた。植民地の西部は人口比で少ない代表しか議会に送り出せない状況であり、農民達が議会で対抗手段を取るのは難しかった。最終的に不満を抱いた農夫達が武器を取り、ヒルズボロの庁舎を閉鎖し、腐敗していると見なした役人を通りに引きずり出し、教会の鐘を激しく鳴らした。トライアンは配下の民兵隊から部隊をこの地域に派遣し、1771年5月、アラマンスの戦いで世直し運動家を破った。戦後幾つかの裁判が行われ、1771年6月19日にヒルズボロで6人が処刑された。 アメリカ独立戦争の時は、ヒルズボロがノースカロライナ議会の本拠に使われた。1781年2月下旬には、イギリス軍チャールズ・コーンウォリス将軍の軍事基地にもなった。1787年に起草されたアメリカ合衆国憲法は、ノースカロライナ州では大きな議論になった。1788年7月に招集されたヒルズボロの集会で、代議員達は反連邦主義者だという理由で批准拒否を票決した。ジェイムズ・アイアデルやウィリアム・デイビーの大変な努力と、権利の章典ができる見込みがあったこともあり、代議員はその考えを変えるよう説得された。合衆国憲法は後にファイエットビルで開催された会議で批准された。 アメリカ独立宣言の署名者ウィリアム・フーパーは1790年10月に長老派教会墓地に埋葬された。しかし、その遺骸はギルフォード郡庁舎軍事戦場跡に移葬された。最初の墓石は町の墓地に残っている。
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植民地と独立戦争の時代
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「ジェネシー郡 (ニューヨーク州)」の記事における「植民地と独立戦争の時代」の解説
1683年にニューヨーク植民地で郡が作られたとき、現在のジェネシー郡地域はオールバニ郡に属していた。これは巨大な郡であり、ニューヨーク州北部とバーモント州の全てを含んでおり、さらに理論的には西の太平洋岸まで広がっていた。1766年7月3日に、カンバーランド郡を分離し、1770年3月16日にグロスター郡を分離したが、どちらも現在はバーモント州に含まれている。1772年3月12日、オールバニ郡の残りが3つに分割され、1つはオールバニ郡の名前で残った。1つは西部に作られたトライアン郡だった。トライアン郡の東部境界は現在のスケネクタディ市の西約5マイル (8 km) にあり、アディロンダック山地の西側と、デラウェア川西支流より西の領域を含んでいた。トライオン郡に指定された地域には現在のニューヨーク州37郡が入っている。ニューヨーク植民地総督のウィリアム・トライアンに因んで名付けられた。1784年、アメリカ独立戦争を終わらせた条約締結に続いて、トライアン郡はモンゴメリー郡に改名された。これは独立戦争時の将軍リチャード・モントゴメリーに因む命名だった。モントゴメリーはカナダで数か所を占領した後、ケベック市攻略中に戦死した。憎まれたイギリスの総督に代わる命名だった。この頃、ペンシルベニア植民地とマサチューセッツ湾植民地もこの地域の領有を主張しており、ニューヨーク州はその領有主張を強行しなかった。1789年、フェルプスとゴーラムの買収を行った結果として、モンゴメリー郡からオンタリオ郡が分離した。この時点でも西側の境界は太平洋まで伸びている状態だった。
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