植民地から独立戦争の時代
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「南西部領土 (アメリカ合衆国)」の記事における「植民地から独立戦争の時代」の解説
植民地時代、南西部領土となる地域はノースカロライナ植民地が土地の所有勅許を受けていたが、スモーキー山脈やブルー・リッジ山脈に阻まれて、地域内の利益追求の段階までは至っていなかった。むしろ、バージニアやサウスカロライナの植民地から交易や政治的な配慮により、開拓が進められた。 今日のテネシー州エリザベストンにあったワトーガ砦は、トランシルバニア買収の域内にあった。1775年3月、ノースカロライナの判事リチャード・ヘンダーソンと土地の投機家の一行が、シカモア・ショールズで1,200名以上のチェロキー族インディアンと会合を持った。チェロキー族の指導者には、アタクラクラ、オコノストタおよびドラッギング・カヌーが含まれていた。この時に結ばれたシカモア・ショールズ条約(ワトーガ条約)で、ヘンダーソンはカンバーランド川、カンバーランド山脈およびケンタッキー川に囲まれ、オハイオ川より南の土地全てを購入した。このトランシルバニアと呼ばれた土地の広さは2千万エーカー (80,000 km2)あり、今日のケンタッキー州の半分に相当した。ヘンダーソンのこの買収は、インディアンの土地を私的に購入することを禁じたノースカロライナとバージニアの法律および1763年宣言を犯すものであった。ヘンダーソンは、その頃のイギリス法曹界の考え方がこのような買収を法に適っているとしたことを信じていた可能性がある。 ヘンダーソンはシカモア・ショールズ条約に先立って、ケンタッキーを探検したことのある経験を積んだ猟師ダニエル・ブーンを雇い、チェロキー族の集落を訪ねて交渉の予告をさせていた。条約締結の後、ブーンはカンバーランド渓谷を抜けてケンタッキー中央部に至る通称ワイルダネス道路を切り開くために雇用された。ブーンは30名の作業者と共にこの仕事に携わり、ケンタッキー川に至って、ブーンズボロの町(現在のケンタッキー州レキシントン近く)を造った。この町はトランシルバニアの首都とする意図があった。同時にハロッヅバーグの開拓地も造った。ケンタッキーに自発的に入ってきた入植者はトランシルバニアが支配していることを知らなかった。ダニエル・ブーン道路の歴史標識がエリザベストン中心街の実業地区の直ぐ外にある。 アメリカ独立戦争初期の1776年、シカモア・ショールズのワトーガ砦は、トランシルバニア買収に反対するドラッギング・カヌーに率いられたチェロキー族の一派(開拓者達は彼らをチカマウガと呼んだ)の攻撃を受けた。この攻撃を跳ね返したワトーガ砦はワトーガ川堤の辺境に生き残り続けた。 ノースカロライナは1777年から1778年にかけて南西部領土の一部を郡として編入したが、開拓者達が要求する基本的な行政行為やインディアンからの防御については、相変わらず無視し続けた。 1780年9月26日、ワトーガ砦はケンタッキーなどの民兵で構成されるオーバーマウンテン部隊のアパラチア山脈を越える遠征の拠点となった。この部隊は後にサウスカロライナのマスグレイブス・ミルの戦いと、ノースカロライナのキングスマウンテンの戦いでイギリス軍と対戦し、打ち破ることになった。 アメリカ独立戦争までイギリス植民地としてのアメリカではほとんど火薬の製造が行われておらず、需要のほとんどをイギリスからの輸入に頼っていた。1777年10月、イギリスの議会はアメリカ植民地に対する火薬の輸出を禁じた。メアリー・パットンという女性とその夫が、ギャップ・クリークにあった製粉所でオーバーマウンテン部隊のために500ポンド (450 kg) の黒色火薬を作った。作った日の夜は雨だったので、オーバーマウンテン部隊はこの火薬を、現在のテネシー州ローン・マウンテン近くにあったシェルビング・ロックとして知られる乾燥した洞穴に貯蔵した。1781年1月、オーバーマウンテン部隊はサウスカロライナであったカウペンスの戦いでもイギリス軍と戦った。 1783年のパリ条約によって、アメリカ独立戦争が終結し、イギリスはミシシッピ川から東で五大湖の南の領土をアメリカに割譲した。この結果としてオハイオ川を境にアメリカ合衆国の北西部領土と南西部領土が発生した。 1784年、テネシーの北西部にある幾つかの郡がフランクリン国(State of Franklin)となった。オーバーマウンテン部隊を指揮したジョン・セビアが知事に指名され、アメリカの議会からは認められないまま、独立した国家として活動を始めた。ほぼ時を同じくして、テネシーの他の地域の開拓者は、ミシシッピ低地を支配していたスペインとの同盟のための予備的交渉を始めていた。ノースカロライナもこの地域の支配回復に動き出し、フランクリン国は1788年に平穏に消滅した。
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