フランクリン国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/19 00:48 UTC 版)
フランクリン国(-こく、英State of Franklin)は、アメリカ独立戦争終了後間もなく、アメリカ合衆国領土内の分離主義者が建国した自立した国である。国の場所は、後にノースカロライナ邦が合衆国政府に割譲し、テネシー州の一部となった所にあった。フランクリン国はアメリカ合衆国への加盟を公式に認められることはなく、4年後に消滅した。フランクリン邦(-ほう)と訳されることもある[1]。
- ^ “フランクリン邦”. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. コトバンク. 2019年11月19日閲覧。
- 1 フランクリン国とは
- 2 フランクリン国の概要
- 3 雑学
フランクリン国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/05 14:22 UTC 版)
詳細は「フランクリン国」を参照 西部の者達の2つの大きな要求事項、インディアンからの保護とミシシッピ川の航行権は、1780年代を通じて無視されていた。ノースカロライナの鈍感さに憤懣を募らせた東部テネシーの住民は1784年に分離してフランクリン国を作った。 ジョン・セビアが知事に指名され、できたばかりの国は認知されていないまでも、独立した政府として運営を始めた。これと同時に、カンバーランドの開拓者達の指導者が、ミシシッピ川下流を支配しており、インディアンの襲撃を煽っていた当事者であるスペインとの同盟を提案した。ワトーガおよびカンバーランド盟約を書き上げた初期テネシーの住民は既に自治政府の権利をいくらか行使しており、政治的な事項を自分達の手で扱う準備ができていた。 このような独立の動揺がノースカロライナの注意を引き、その西部郡部の支配権を密かに再主張し始めた。これらの政策と東部テネシーの住民間の分裂によって、フランクリン国は短命となり、1788年にはその存在が終わった。
※この「フランクリン国」の解説は、「テネシー州の歴史」の解説の一部です。
「フランクリン国」を含む「テネシー州の歴史」の記事については、「テネシー州の歴史」の概要を参照ください。
フランクリン国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 09:40 UTC 版)
1784年、ノースカロライナは大陸会議からの圧力に屈し、金がかかり利益も生まない地域を外してしまおうと考え、アパラチア山脈から西のすべての土地をアメリカ合衆国政府に譲渡した。しかし、大陸会議は直ぐにその土地を受け取らず、現在の東テネシーに政治的空白が生まれた。セビアはこの空白を埋めるべく立ち上がった数人の著名な者の一人となり、新しいフランクリン国(多くの資料によればベンジャミン・フランクリンに因んで名付けられたことになっているが、時にフランクランドと言われることもあり、これは「自由な民の土地」を意味している)の知事職を引き受けた。ノースカロライナがその譲渡を撤回したとき、セビアは当初ノースカロライナへの復帰を望んだが、これはセビアが准将への昇進を提示されたことも理由の一部だった。しかし、別の著名なフランクリン人(後にテネシー州選出のアメリカ合衆国上院議員)ウィリアム・クックが現在のまま留まるよう説得した。 ノースカロライナとフランクリン国が地域住民の忠誠心を得ようと争ったので、セビアはジョージアとの陰謀に巻き込まれ、現在のアラバマ州北部にあったチェロキー族の土地を支配しようとし、スペインの知事エステヴァン・ミロがアパラチア圏のアメリカを簒奪しようとセビアに金を送ったので、スペインとの同盟でさえも検討した。フランクリン国とノースカロライナは地域の役人、連邦議会上院議員および下院議員をそれぞれ選出した。その結果、セビアの資産の幾らかはノースカロライナの課すと考えられる税金のために差し押さえられた。この押収は、セビアがフレンチブロード川の南に住むフランクリン国開拓者に対して自分達の防衛を諮ろうとしたチェロキー族に対する作戦行動に出ている時に行われた。セビアは戦いから帰還すると、民兵を連れて、ノースカロライナの著名人ジョン・ティプトン(実際に著名だったので、そのノースカロライナの支持者はティプトニアンと呼ばれることがあった)の農園に行き、3日間’1788年2月27日から29日)包囲した。最終的にティプトンはサリバン郡の民兵の応援を得て、セビアの息子のうち2人を捕虜にした。この息子2人が釈放された時にセビアは包囲を解いた。この出来事は「失われたフランクリン国の戦い」と呼ばれ、フランクリン国政府の終焉の始まりとなった。対峙した両軍の所属兵は隣人や友人だったので、銃撃の際も最高の慎重さで狙いを外しており、戦死や負傷した者はほとんどいなかった。しかし、それから1年以内にフランクリン国はその存在を終えた。 1788年にセビアはノースカロライナの法における反逆罪で逮捕されたが逃亡した。 1789年、セビアは連邦党員としてノースカロライナ州上院議員に選出された。この選出後、知事から恩赦を受け、反逆罪の告訴は終わった。 セビアはノースカロライナ州からアメリカ合衆国議会第1会期の下院議員に選ばれ、1790年6月16日から1791年3月3日まで務めた。
※この「フランクリン国」の解説は、「ジョン・セビア」の解説の一部です。
「フランクリン国」を含む「ジョン・セビア」の記事については、「ジョン・セビア」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
- フランクリン国のページへのリンク