植民地の政治と軍務
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「ロバート・ハウ」の記事における「植民地の政治と軍務」の解説
1755年頃、ハウはブレイデン郡民兵中隊の隊長となり、1756年には郡の治安判事に指名された。1760年、ブレイデン郡から植民地議会議員に選出され、1762年まで務めた。1764年、議会がブランズウィック郡を創設し、ハウは新郡の治安判事に指名され議員にも選出された。その後6期を務めることになった。1765年、ヒュー・ワッデル、アブナー・ナッシュ、コーネリアス・ハーネットたち植民地指導者と共に、ウィルミントン・サンズ・オブ・リバティという組織を設立した。これは大半の印刷物に対して課税する1765年印紙法に抗議する団体だった。当時、組織の会員はその抵抗が反乱に繋がるとは考えておらず、住民の意思に逆らって法を執行する政府は、十分な権限を持って行動しているのではないという考えに基づいていた。印紙法危機の決議が行われた後、ハウは植民地財務部門の役人になった。ケープフェア川地域はノースカロライナにおける印紙法抗議活動の中心だったが、植民地総督のウィリアム・トライアンとは個人的に友人でもあり、ハウの政治的野望については総督が後援者だったので、総督と積極的に対立する活動には実質的に関わっていなかった。 フレンチ・インディアン戦争のとき、ハウはバージニア植民地の兵と共に従軍した。1766年、民兵隊の大尉に任官され、ケープフェア川の河口、現在のサウスポートにあったジョンストン砦の指揮官となった。この任務を1766年から1767年までこなし、さらに1769年から1773年まで務めた。その地位には満足していたが、究極的にはジョンストン砦の指揮官にとって必要条件と考えられるイギリス正規軍の任官を得たいと考えていた。しかしトライアンの支援があっても、この任官は得られなかった。1768年の植民地議会で、ハウは植民地における通貨不足に対応する法を提案する大きな役割を演じた。その法案は植民地の法定通貨として商品を受け入れることに繋がるものだったが、法案は成立しなかった。ノースカロライナの田園部では不満を抱く農夫達による世直し運動が税を取り戻そうとしており、また民間の債権者からは圧力があり、その双方にハウの法案は対抗しようとしていた。 植民地の政策を改革しようとしたその動きにも拘わらず、世直しの戦争時にピードモント台地で起こった武装抗議の集団に対し、ハウはトライアン総督から砲兵隊長に指名され、総督の下に仕えることになった。1768年にヒルズボロで世直し運動家と対峙したとき、総督の側近に入っており、また1771年のアラマンスの戦いでは、砲兵隊長と主計総監という2つの役目を果たした。1773年初期、マサチューセッツのジョサイア・クインシー2世がノースカロライナを訪れ、南部の活動家とボストンの活動家の間の協力を発展させようとし、同情心を抱いていた世直しの戦争の原因を調査した。ハウはクインシーを案内し、コーネリアス・ハーネットやウィリアム・フーパーの助力を得て、世直し運動は正当化されないこと、トライアンに対して武器を取ったことに悪があることについて、クインシーを説得した。クインシーはハウが「分別、刀、上院、責任の最も幸福な組み合わせであり、 ... 分別ある男と女性の世界のお気に入り」であることがわかり、「(ハウは)欠点と悪徳があるが、それが無い者がいるだろうか」とも語っていた。しかし、クインシーがハウ、フーパー、ハーネットを訪れたことは、将来イギリスの政府によって押し付けられることに対する反応を協調させるために、植民地間の対話の線を開きたいという者達の願望を生み出したことで重要だった。 ハウの私有財産が安定していることはなく、1766年から1775年の間に、資金を得るために土地を抵当に入れ、奴隷を売らなければならなくなった。1770年、ケープフェア川沿いに広さ400エーカー (1.6 km2) のコメ・プランテーション、ケンドール・プランテーションを購入できたが、1775年にはそれを214ポンドで抵当に入れることになった。ハウが財政的な逆境になった理由は不明であるが、当時の批評家数人は支配階級のエリートの中で外観を保っておく必要があったことだと指摘しており、トライアンの後継総督となったジョサイア・マーティンは、その逆境をハウが公金を使い込んだ可能性の現れだと考えた。特にマーティンは、ジョンストン砦守備隊のために植民地議会が割り当てた資金を着服するために、砦の守備要員を意図的に減らしたと考えた。それは以前の指揮官やイギリスの役人がよく使っていた方法だった。ハウは議員および公職の役人として、マーティンとの折り合いが悪く、マーティンは着任から間もなくハウからジョンストン砦指揮官と財務部門の役職を取り上げた。1770年、議会がイングランドに住む人が所有する不動産を差し押さえようとする法を通そうとして議会内対立が起こり、ノースカロライナではなく、イングランドの法廷から植民地臣民は救済を求めるという要求事項を好んだマーティンと、ハウは直接対立することになった。新総督の政策にハウが敵意に満ちた反対をすることは、ハウが価値ある任命職を奪われたことへの腹いせだと、マーティンは考えた。
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