植民地の管理
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 10:18 UTC 版)
「フランス領ルイジアナ」の記事における「植民地の管理」の解説
アンシャン・レジームの下で、ルイジアナはアメリカにおけるフランス帝国の大きな植民地ヌーベルフランスの一部となった。これには今日のカナダも含まれていた。ヌーベルフランスは元々総督によって治められていた。この地位はバンタドール公によって独占されていた。そこでブルボン朝の他の所有物と同様に議会を備えることにした。その首都は1759年までケベック市に置かれた。一人の総督と一人の監督官が任命されこの広大な帝国領土を治めることになった。理論上はルイジアナがカナダの属国になった。さらに、カナダの植民地人によって探検され移民がおこなわれたので、フランス本国からの開拓者の数よりも多くなった。ニューオーリンズとケベックも遠大な距離があったので、都市や砦の外では情報連絡も限られたものになった。 フランスの開拓地は広く分散していたので、事実上自治的な性格のものになっていた。ヌーベルフランスの広大で多様な植民地を、ルイジアナを含む5つの政府にわけて管理することが決められた。五大湖の南のイリノイは1717年にルイジアナに付け加えられた。フランス領ルイジアナの最初の首都はモービルであった。続いて1720年にはビロクシに、1722年にはニューオーリンズに変えられた。ルイジアナの知事は最も顕著な性格のものであったが、最も力を持っていたわけではなかった。知事は軍隊を指揮し、外交関係の責任があった。第二の地位は警察の長官であった。その機能はフランスの監督官に似ており、管理をし、王の代行となり、司法や警察力および財政にかんする権限があった。この知事と長官で、予算、商品価格の設定、高等委員会(法廷)の議長および国勢調査の統括も行った。国王に指名されるルイジアナの兵站士官は、時には知事の部下と諍いを起こすくらいの広い権限があった。内陸の軍事基地は司令官達によって統率された。
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