著作『植民地の管理』
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「トマス・パウナル」の記事における「著作『植民地の管理』」の解説
パウナルはサウスカロライナの総督となったが、そこに実際に行くことはなかった。マサチューセッツでの任期を「大変な」ものだったと評しており、1760年11月にはロンドンの植民地事務所に、就位したばかりのジョージ3世が直接命令して初めて、もう一つの総督の地位を引き受けてもいいと伝えた。ピットはパウナルをハノーヴァー選帝侯の軍事委員会の職を宛てた。パウナルはその職を七年戦争の終る1763年まで務めた。しかし、その地位では植民地管理における経験を積むという大望には合わず、また財政上の不正行為という告発もあった。その疑いは晴らされた。 パウナルはイングランドに戻ったときに『植民地の管理』と題する論文を準備していた。それはまず1764年に匿名で出版され、その後1765年から1777年の間に何度か改定して再出版された。この著作は北アメリカの現状に関する些末で複雑な論文であり、13植民地で進行していた緊張感に対する論評が含まれ、パウナルなりに植民地を如何に適切に大英帝国の中に組み入れるかを探索する意図があった。 パウナルの著作はアメリカ人の自由を支持する者であることを明確にした。イギリスが植民地の支配権を失うことを恐れていたが、アメリカ人はイングランド、スコットランド、ウェールズの仲間である臣民を代表する政府の同様な権利を与えられると記していた。同時に植民地人がイギリスから受けた軍事的保護が、その費用の幾らかを払わせることになる同等に広範な義務を作り出したと主張していた。また北アメリカの気難しい植民地を含め、イギリス帝国の全メンバーを纏めることになる共通の政策を作ることができる、強い中心となる議会の必要性についても確信していた。最終的にイギリスと植民地双方からの代表で帝国議会を作ることが唯一の解決法だと結論付けていた。帝国議会というアイディアについては、パウナルだけが唯一のイギリス人論評者ではなかったが、アメリカ人の大半はそれを受け入れがたい説だと考えたので、ジョン・ディキンソンなどはその影響力ある1768年の著作『ペンシルベニアの農夫からの手紙』の中で、議会を中央集権化させる改革案を特別な批判の対象にしている。
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