植民地の経済
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/28 10:11 UTC 版)
ニヤサランド設立初期の頃は綿花の栽培が主要産業であったが、1918年以降にはタバコ栽培がメインとなった。 1916年から1917年の綿花の輸出量は346万2000ポンドに達していたが、1917年から1918年にかけては86万6000ポンドまで輸出量が減少した(大部分が積み出しの制限による)。その後、1918年から1919年には輸出量が267万0000ポンドと再び上昇したものの、1919年から1920年には93万0000ポンドまで減少した。また、同年には茶の輸出への関心が高まる一方、コーヒーの大部分が廃棄された。コーヒーの輸出量は、1909年から1910年にかけては74万8000ポンドであったが、1918年から1919年には11万3000ポンドまで落ち込んでいたのである。 この綿花生産量の下落は、適切な種子の選別を怠ったことと、栽培時の他の失敗に由来する部分もあったが、実際の主な理由は、ニヤサランドの土壌や気候はタバコと綿花のいずれにも適しているが、タバコ栽培のほうがより換金作物として優れていた点が上げられる。 1917年には船荷として積み込む前に行った燻蒸消毒による失敗など、何件かの不幸な事件もあったが、その後通常の場合には、イギリスの市場で高い価格をつけるようになった。1916年から1917年には430万4000ポンドの輸出量があったタバコは、1917年から1918年には202万5000ポンドまで減少したものの、1918年から1919年にかけては580万0000ポンド、1919年から1920年には34万0000ポンドとなった。 綿花とコーヒーに関しては、主として先住民族の農家が栽培を行っていたほか、ヨーロッパ人のプランテーションでも栽培していた。
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