南部植民地の成長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/12 03:15 UTC 版)
「アメリカ合衆国南部の歴史」の記事における「南部植民地の成長」の解説
各植民地の詳細については、ジョージア植民地、メリーランド植民地、ノースカロライナ植民地、サウスカロライナ植民地およびバージニア植民地を参照 17世紀の終わりまでに、植民地人の数は成長していった。人口の集中部は北東部や中部であり、メリーランド、バージニア、ノースカロライナおよびサウスカロライナの各植民地は田園のフロンティアのままだった。これら植民地の経済は農業と結びついていた。この期間新しい国での大きな機会を見ていた富裕な植民地人によって大規模プランテーションが形成された。タバコと綿花が主要換金作物であり、イングランドのバイヤーには即座に受け入れられた。米と藍も栽培されヨーロッパに輸出された。プランテーション所有者は広壮な貴族的邸宅を建てて暮らし、その土地から上がる富を蓄積した。その土地を使う手段として奴隷制を支持し、ヨーロッパ人文化サークルと緊密な関係を保とうとした。 農業という硬貨の裏側はヨーマン(小農)だった。彼等は大きなプランテーションを運営するだけの能力や富を持っていなかった。その代わりに小さな土地を耕し、プランテーション所有者による寡頭政治が成長するのに対抗して政治的な活動力を上げた。この時代の多くの政治家は自由人としての権利を守ることを声高に話す小農出身者が多かった。 チャールストンが南部植民地の中で繁栄する貿易港になった。その地域には松の木が多く生えていたので造船用材料となり、港はイギリス船が輸入品を持ち込むには安全性を備えていた。植民地人はタバコ、綿花および繊維製品を輸出し、茶、砂糖および奴隷を輸入した。これらの植民地がそれぞれイングランドやヨーロッパの他の国との貿易を継続したという事実は、後にアメリカ独立戦争に繋がる緊張関係で重要な要因になった。 17世紀後半以降、北部と南部の特に海岸地域での経済は多様化を始めた。南部は輸出用商品の生産に特化し、北部は食料生産に重きを置いた。 18世紀半ばまでに、メリーランド、デラウェア、バージニア、ノースカロライナ、サウスカロライナおよびジョージアの各植民地が確立された。北の方、すなわちメリーランド、バージニアおよびノースカロライナの一部はタバコの栽培が盛んだった。しかし、南のサウスカロライナやジョージアでは綿花や米の栽培が大きくなった。
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