南部氏説
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南部 宗継(なんぶ むねつぐ、生没年不詳)もしくは南部遠江守宗継は、鎌倉時代末期から南北朝時代頃にかけて活動した武士。『太平記』に弟とされる、南部次郎左衛門尉とともに足利勢の武将として南遠江守、南次郎左衛門尉などとも描かれしばしば登場する人物。南部長継の子で、波木井南部氏4代目?、伊勢南部氏の祖。 近世こもんじょ館の南部氏系図における『系図纂要南部氏系図』では、伊勢南部氏は波木井南部氏とは違い、南部氏宗家第3代当主時実の4男として描かれているが、実政から3代後の宗継の時代当時の「太平記」に描かれた時代背景を考え合わせると、世代が1世代・30年くらいはずれてしまい伊勢南部氏の初代を実政とする系図纂要の系図は他の南部氏系図と比較しても南部氏系図としては妥当性を欠く系図になっている。しかし、初代を波木井南部氏の実長と置き換えると、時代背景や系図上も合っているのがみえてくる。 これは山梨県南部町の諏訪明神社所蔵の南部氏系図で義行の父、義光と義元が置き換えられた系図作成手法そのままである。伊勢南部氏が宗継以降足利氏に仕えたのは、鎌倉幕府を倒した尊氏らの不満から建武の新政が崩壊した結果南北朝の争いとなり、伊勢方面で活動していた父の長継と貞継は相変わらず南朝に付いたが、長継の命で?倒幕時に尊氏に従っていた宗継兄弟は有無を言わせず父や本家筋の根城南部氏・甲斐南部氏・三戸南部氏と対立、争う結果を招いて従しまった歴史の非情さを物語っている。また、宗継の又従兄弟にあたる波木井南部氏の南部長氏の子とみられる政氏も足利尊氏の供奉の列にみえる。 これは南北朝時代そのものが特に同族や兄弟までが相争う時代だったが為、南部氏もご多分に漏れず鎌倉幕府崩壊以降、否応なく巻き込まれてしまったと言える。 『太平記』では、義貞追討の節度使や、多々良浜の戦い、湊川の戦いの後の山門攻め、天龍寺の大仏供養、四條畷に向かう高師直の2万騎などに大将格で南部遠江守宗継を名乗り弟と共に列した宗継だが、高師直の軍に加わり楠木正行3兄弟や、八戸南部氏の南部信政を討ち果たしたとされる四條畷の戦い以後、宗継は弟の次郎左衛門尉とともに南氏として描かれている。宗継は武蔵野合戦では足利基氏の警護役に南遠江守として就いている。そしてこの武蔵野合戦の笛吹峠の戦いには、山門攻めの際に足利尊氏に対し、後醍醐帝に近侍して敵対していた甲斐南部氏の嫡流、南部義重の子とされる南部常陸介が足利勢の新手として参陣していた。 恥を恐れ名前を大事にした武家の姓が変わっているが、太平記の宗継兄弟が南氏姓に変ったのは四條畷の戦いからである。宗継兄弟が姓を変えたのは同族の信政を討ち果たしたためか、それとも勝利者側としての足利氏への『太平記』の作者の配慮か、はた又権力者の足利氏の意図が込められたものかは不明だが、観応の擾乱以降、宗継兄弟の名前は『太平記』では見られなくなる。
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