南部氏説とは? わかりやすく解説

南部氏説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/30 20:30 UTC 版)

南宗継」の記事における「南部氏説」の解説

南部 宗継(なんぶ むねつぐ、生没年不詳もしくは南部遠江守宗継は、鎌倉時代末期から南北朝時代頃にかけて活動した武士『太平記』に弟とされる南部次郎左衛門尉とともに足利勢の武将として南遠江守、南次郎左衛門尉などとも描かれしばしば登場する人物南部長継の子で、波木井南部氏4代目?、伊勢南部氏の祖。 近世こもんじょ館の南部氏系図における『系図纂要南部氏系図』では、伊勢南部氏波木井南部氏とは違い南部氏宗家第3当主時実の4男として描かれているが、実政から3代後の宗継の時代当時の「太平記」に描かれ時代背景考え合わせると、世代1世代・30年くらいはずれてしまい伊勢南部氏初代を実政とする系図纂要系図は他の南部氏系図比較して南部氏系図としては妥当性を欠く系図になっている。しかし、初代波木井南部氏の実長と置き換えると、時代背景系図上も合っているのがみえてくる。 これは山梨県南部町諏訪明神所蔵南部氏系図義行の父、義光と義元置き換えられ系図作成手法そのままである。伊勢南部氏が宗継以降足利氏仕えたのは、鎌倉幕府倒した尊氏らの不満から建武の新政崩壊した結果南北朝争いとなり、伊勢方面で活動していた父の長継と貞継は相変わらず南朝付いたが、長継の命で?倒幕時に尊氏に従っていた宗継兄弟有無を言わせず父や本家筋の根城南部氏甲斐南部氏三戸南部氏対立、争う結果招いて従しまった歴史非情さを物語っている。また、宗継の又従兄弟にあたる波木井南部氏南部長氏の子とみられる政氏も足利尊氏供奉の列にみえる。 これは南北朝時代そのものが特に同族兄弟までが相争う時代だったが為、南部氏ご多分に漏れず鎌倉幕府崩壊以降否応なく巻き込まれてしまったと言える『太平記』では、義貞追討節度使や、多々良浜の戦い湊川の戦いの後の山門攻め天龍寺大仏供養四條畷に向かう高師直2万騎などに大将格で南部遠江守宗継を名乗りと共に列した宗継だが、高師直の軍に加わり楠木正行3兄弟や、八戸南部氏南部信政討ち果たしたとされる四條畷の戦い以後、宗継は弟の次郎左衛門尉とともに南氏として描かれている。宗継は武蔵野合戦では足利基氏警護役に南遠江守として就いている。そしてこの武蔵野合戦笛吹峠の戦いには、山門攻めの際に足利尊氏対し後醍醐帝近侍して敵対していた甲斐南部氏嫡流南部義重の子とされる南部常陸介足利勢の新手として参陣していた。 恥を恐れ名前を大事にした武家の姓が変わっているが、太平記の宗継兄弟南氏姓に変ったのは四條畷の戦いからである。宗継兄弟が姓を変えたのは同族信政討ち果たしたためか、それとも勝利者としての足利氏への『太平記』作者配慮か、はた又権力者足利氏意図込められものかは不明だが、観応の擾乱以降、宗継兄弟の名前は『太平記』では見られなくなる。

※この「南部氏説」の解説は、「南宗継」の解説の一部です。
「南部氏説」を含む「南宗継」の記事については、「南宗継」の概要を参照ください。

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