南部海軍
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「アトランタ (装甲艦)」の記事における「南部海軍」の解説
1862年の初め、エイザ・ティフト(Asa Tift)とネルソン・ティフト(Nelson Tift)の兄弟が、フィンガルを装甲艦に改造する契約を請け負った。新しい艦の名前はアトランタで、もちろんジョージア州のアトランタ市に由来するものであった。サバンナの女性達が資金の多くを負担した。フィンガルは主甲板の部位で切断され、鉄製の砲郭を支えるために船体の左右には大きな木製のバルジが取り付けられた。改造後のアトランタの全長は204フィート (62.2 m)、全幅は41フィート (12 m)となった。船底から甲板までの高さは17フィート (5.2 m)、喫水は15 フィート 9 インチ (4.8 m)となった。排水量は1,006英トン (1,022 t)に増加し、このため速度は7-10ノットに低下した。 砲郭の装甲は、鉄道レールを圧延して製造した厚さ2インチ (51 mm)・幅7インチ (180 mm)の鉄板を2層に重ねたものであり、水平から30度傾斜していた。外側の鉄板は縦方向に、内側の鉄板は横方向に敷かれた。この装甲を支えるために、基部にそれぞれ7.5インチ (191 mm)厚の松材を2層、その上に3インチ (76 mm) 厚のオーク材を縦方向に貼り合わせてあった。砲郭の下部は水面から約20インチ (508 mm)の高さにあり、最上部は8 フィート 6 インチ (2.59 m)であった。2人分の広さがあるピラミッド型の操舵室も同様の方法で装甲されていた。船体上部も2インチの装甲で覆われていた。 砲郭には合計8箇所の小さな砲門が開けられていた。前後に1箇所ずつ、左右に3箇所ずつである。砲門は2インチ厚の鉄板を貼り合わせたシャッターで防護されており、砲の仰角は5-7度程度に過ぎなかった。アトランタの備砲は、前後に旋回式の7インチ (178 mm)単帯補強型ブルック施条砲、左右中央の砲門用として6.4インチ (163 mm)単帯補強型ブルック砲施条砲を搭載していた。7インチ砲は17口径長で重量はおよそ15,000ポンド (6,800 kg)であり、ボルト(bolt)と呼ばれた80ポンド (36 kg)徹甲弾または110ポンド (50 kg)炸裂弾が使用できた。6.4インチ砲は、18.5口径長で重量9,110ポンド (4,130 kg)、80ポンド徹甲弾または64ポンド (29 kg)炸裂弾が使用できた。アトランタは艦首に20フィート (6.1 m)長で鋼鉄製の棒で補強された鉄製衝角を有していた。衝角前部には、木製の棒に50ポンド (23 kg)の黒色火薬を炸薬とする外装水雷が取り付けられており、鉄製のレバーと滑車を使って艦上から操作して上下させることができた。 1862年7月31日、チャールズ・マクブレア大尉の指揮下で、アトランタはサバンナ川を下ってプラスキ砦(Fort Pulaski)までの海上公試を行った。この試験において、操艦が困難であること、追加した装甲と備砲の重量のため喫水が深くなり、速度が大きく低下したことが分かった。とくに、喫水の増加はサバンナ近くの浅い海では問題であった。また水漏れも多く、その設計上空気の循環が限られていた。ある報告書では「換気の手段がほとんど無く、温度が極度に上昇するため、アトランタに乗艦するのはほとんど耐え難い」と記されている。スケールズは自分の日記に「不快で地獄のような、神に見放された艦」と書いている。 これらの不具合を直す工事が行われ、少なくとも多くの水漏れは補修された。 アトランタは11月22日に就役し、ジョージア海軍司令であるジョサイア・タットノールの旗艦となった。封鎖艦隊と戦えというマロリーからの圧力を受け、1863年1月5日、北部海軍の装甲艦が到着する前にタットノールは出撃した。しかし、タットノールが早期に要求していたにも関わらず、陸軍の工兵は浅瀬に敷設された妨害物を予定通りに取り除くことが出来なかった。妨害物の撤去にはさらに1ヶ月を要し、1月末には北部海軍のモニター艦2隻が到着していた。しかしながら、タットノールは2月3日の満潮時を狙って、障害物を避けて再び出撃することを試みたが、強風で波が高かったため実現できなかった。結局障害物を通過して出撃できたのは3月19日で、タットノールは北軍のモニター艦がチャールストン攻撃に出払っている間を狙って、サウスカロライナ州ポート・ロイヤル(Port Royal)の北部海軍基地を攻撃する計画を立てた。ワッサウ・サウンド(Wassaw Sound)の端で待機しているときに、南軍の脱走兵がタットノールの計画を北軍にもらしたため、ポート・ロイヤルを防衛するモニター艦が3隻に増強され、タットノールは撤退を余儀なくされた。マロリーはタットノールが積極性に欠けるとして、3月末にサバンナ戦隊の司令をリチャード・ペイジ(Richard L. Page)中佐にを交代させた。ペイジは5月にはウィリアム・ウェブ(William A. Webb)中佐と交代したが、アトランタは戦隊旗艦として留まった。 ウェブは積極性を見せて、着任後最初の大潮(5月30日)を狙って出撃したが、妨害物を通過した後にアトランタの前部蒸気機関が故障し、座礁してしまった。アトランタ自体に損傷は無かったが、離礁するのに1日を費やしてしまった。マロリーは装甲艦CSS サバンナが就役間近なのでそれを待つように勧めたが、ウェブはこれを拒否して次の大潮時に再び出撃した。その頃、北部海軍の南大西洋封鎖艦隊司令であるサミュエル・デュポン少将は、隷下の2隻のモニター艦、USS ウィーホーケン(Weehawken)とUSS ナハント(Nahant)に対して、ワッサウ・サウンドに進出するよう命令した。ウィーホーケンのジョン・ロジャーズ(John Rodgers)中佐が2隻の総指揮をとった。 6月15日の夕刻、ウェブはウィルミントン川の妨害物を通過し、その夜には石炭の積み込みを行った。16日の夕刻には翌朝に北軍モニター艦に攻撃をかけられる位置にまで進み、身を隠した。ウェブは、まず1隻を外装水雷で撃沈し、もう1隻と砲撃戦を行うことを計画した。南部海軍の砲艦CSS アイソンディガ(Isondiga)とタグボートCSS レゾリュート(Resolute)が、モニター艦を鹵獲しサバンナまで曳航するために随伴した。 警戒のために出撃してきたウィーホーケンが6月17日の早朝4時10分にアトランタを発見した。アトランタは北軍艦2隻に約1.5マイル (2.4 km)まで近づき、艦尾砲から1発砲撃を行ったが、砲弾はウィホーケンを越えてナハントの近くに着弾した。その後すぐに、アトランタは砂州に乗り上げてしまった。しばらく後に離脱できたが、波のために再び砂洲に押し戻された。今回は離礁できず、モニター艦が距離を詰めて来た。戦隊を率いていたウィーホーケンが200–300ヤード (180–270m)まで近づき、2門の備砲(15インチ (381 mm)および11インチ (279 mm)ダールグレン滑腔砲)で砲撃を開始した。11インチ砲弾は外れたが、15インチ砲弾は舷側中央砲門の上部に命中し、鉄製装甲を貫通した。木材基部までは貫通できなかったが、飛び散った破片で舷側砲の操作員全員が負傷、加えて後部旋回砲の操作員も半数が負傷した。2発目の11インチ砲弾は砲郭上部に命中し、貫通はしなかったがその衝撃で小さな浸水が生じた。2発目の15インチ砲弾は、開けられていた右舷中央砲門をかすめ、破片で操作員の半数が負傷した。最後の命中弾はやはり15インチ砲からのもので、操舵室の上部に命中、装甲を破壊し操舵員2名を負傷させた。このときまでに、アトランタは7発を発射していたが、北軍モニター艦には1発も命中しなかった。潮位が高くなって離礁可能になるためには、あと1時間半は必要と思われた。他方、ウィホーケンとナハントは自由に航行し、アトランタの大砲の死角となる位置に移動できた。アトランタの損傷も大きく、これ以上の抵抗は無駄であった。ウェブはウィホーケン最初の発砲から15分後、ナハントが発砲を開始する前に降伏した。アトランタの21名の士官と124名の水兵のうち、1名が戦死し16名が重傷のため入院が必要であった。
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