南部海軍とは? わかりやすく解説

南部海軍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/06 04:27 UTC 版)

アトランタ (装甲艦)」の記事における「南部海軍」の解説

1862年初め、エイザ・ティフト(Asa Tift)とネルソン・ティフト(Nelson Tift)の兄弟が、フィンガル装甲艦改造する契約請け負った新しい艦の名前はアトランタで、もちろんジョージア州アトランタ市に由来するものであったサバンナ女性達資金多く負担したフィンガル主甲板部位切断され鉄製砲郭支えるために船体左右に大きな木製のバルジ取り付けられた。改造後アトランタ全長204フィート (62.2 m)、全幅41フィート (12 m)となった船底から甲板までの高さは17フィート (5.2 m)、喫水15 フィート 9 インチ (4.8 m)となった排水量は1,006英トン (1,022 t)に増加しこのため速度7-10ノット低下した砲郭装甲は、鉄道レール圧延して製造した厚さ2インチ (51 mm)・幅7インチ (180 mm)の鉄板2層重ねたものであり、平から30傾斜していた。外側鉄板縦方向に、内側鉄板横方向敷かれた。この装甲支えるために、基部それぞれ7.5インチ (191 mm)厚の松材2層その上に3インチ (76 mm) 厚のオーク材縦方向貼り合わせてあった。砲郭下部水面から約20インチ (508 mm)の高さにあり、最上部は8 フィート 6 インチ (2.59 m)であった2人分広さがあるピラミッド型操舵室同様の方法装甲されていた。船体上部も2インチ装甲覆われていた。 砲郭には合計8箇所小さな砲門開けられていた。前後に1箇所ずつ、左右に3箇所ずつである。砲門は2インチ厚の鉄板貼り合わせシャッター防護されており、砲の仰角5-7程度に過ぎなかった。アトランタ備砲は、前後旋回式の7インチ (178 mm)単帯補強ブルック施条砲左右中央の砲門用として6.4インチ (163 mm)単帯補強ブルック砲施条砲搭載していた。7インチ砲は17口径長で重量はおよそ15,000ポンド (6,800 kg)であり、ボルトbolt)と呼ばれた80ポンド (36 kg)徹甲弾または110ポンド (50 kg)炸裂弾使用できた。6.4インチ砲は、18.5口径長で重量9,110ポンド (4,130 kg)、80ポンド徹甲弾または64ポンド (29 kg)炸裂弾使用できた。アトランタ艦首20フィート (6.1 m)長で鋼鉄製の棒で補強され鉄製衝角有していた。衝角前部には、木製の棒に50ポンド (23 kg)の黒色火薬炸薬とする外装水雷取り付けられており、鉄製レバー滑車使って艦上から操作して上下させることができた。 1862年7月31日、チャールズ・マクブレア大尉指揮下で、アトランタサバンナ川下ってプラスキ砦(Fort Pulaski)までの海上公試行った。この試験において、操艦が困難であること、追加した装甲備砲重量のため喫水深くなり、速度大きく低下したことが分かった。とくに、喫水増加サバンナ近くの浅い海では問題であった。また水漏れ多く、その設計上空気の循環限られていた。ある報告書では「換気の手段がほとんど無く温度極度に上昇するため、アトランタ乗艦するのはほとんど耐え難い」と記されている。スケールズ自分日記に「不快で地獄のような、神に見放された艦」と書いている。 これらの不具合直す工事が行われ、少なくとも多く水漏れ補修された。 アトランタ11月22日就役し、ジョージア海軍司令であるジョサイア・タットノール旗艦となった封鎖艦隊と戦えというマロリーからの圧力を受け、1863年1月5日北部海軍装甲艦到着する前にタットノールは出撃した。しかし、タットノールが早期要求していたにも関わらず陸軍工兵浅瀬敷設され妨害物を予定通り取り除くことが出来なかった。妨害物の撤去にはさらに1ヶ月要し1月末には北部海軍モニター艦2隻が到着していた。しかしながら、タットノールは2月3日満潮時を狙って障害物避けて再び出撃することを試みたが、強風で波が高かったため実現できなかった。結局障害物通過して出撃できたのは3月19日で、タットノールは北軍モニター艦チャールストン攻撃出払っている間を狙ってサウスカロライナ州ポート・ロイヤルPort Royal)の北部海軍基地攻撃する計画立てた。ワッサウ・サウンド(Wassaw Sound)の端で待機しているときに、南軍脱走兵がタットノールの計画北軍もらしたため、ポート・ロイヤル防衛するモニター艦が3隻に増強され、タットノールは撤退余儀なくされた。マロリーはタットノールが積極性欠けるとして、3月末にサバンナ戦隊司令をリチャード・ペイジ(Richard L. Page中佐にを交代させた。ペイジ5月にはウィリアム・ウェブWilliam A. Webb中佐交代したが、アトランタ戦隊旗艦として留まった。 ウェブ積極性見せて着任最初大潮5月30日)を狙って出撃したが、妨害物を通過した後にアトランタ前部蒸気機関故障し座礁してしまった。アトランタ自体損傷無かったが、離礁するのに1日費やしてしまった。マロリー装甲艦CSS サバンナ就役間近なのでそれを待つように勧めたが、ウェブはこれを拒否して次の大潮時に再び出撃した。その頃北部海軍南大西洋封鎖艦隊司令であるサミュエル・デュポン少将は、隷下の2隻のモニター艦USS ウィーホーケン(Weehawken)とUSS ナハント(Nahant)に対して、ワッサウ・サウンドに進出するよう命令したウィーホーケンジョン・ロジャーズJohn Rodgers中佐が2隻の総指揮をとった。 6月15日夕刻ウェブウィルミントン川の妨害物を通過しその夜には石炭積み込み行った16日夕刻には翌朝北軍モニター艦攻撃かけられる位置にまで進み身を隠したウェブは、まず1隻を外装水雷撃沈し、もう1隻と砲撃戦を行うことを計画した。南部海軍の砲艦CSS アイソンディガ(Isondiga)とタグボートCSS レゾリュートResolute)が、モニター艦鹵獲サバンナまで曳航するために随伴した。 警戒のために出撃してきたウィーホーケン6月17日早朝4時10分にアトランタ発見したアトランタ北軍艦2隻に約1.5マイル (2.4 km)まで近づき艦尾砲から1発砲撃を行ったが、砲弾ウィホーケン越えてナハントの近く着弾した。その後すぐに、アトランタ砂州乗り上げてしまった。しばらく後に離脱できたが、波のために再び砂洲押し戻された。今回離礁できず、モニター艦が距離を詰めて来た。戦隊率いていたウィーホーケン200300ヤード (180–270m)まで近づき、2門の備砲15インチ (381 mm)および11インチ (279 mm)ダールグレン滑腔砲)で砲撃開始した11インチ砲弾外れたが、15インチ砲弾舷側中央砲門の上部に命中し鉄製装甲貫通した木材基部までは貫通できなかったが、飛び散った破片舷側砲操作全員負傷加えて後部旋回砲操作員も半数負傷した。2発目の11インチ砲弾砲郭上部命中し貫通はしなかったがその衝撃小さな浸水生じた。2発目の15インチ砲弾は、開けられていた右舷中央砲門をかすめ、破片操作員の半数負傷した最後の命中弾はやはり15インチ砲からのもので、操舵室の上部に命中装甲破壊し操舵員2名を負傷させた。このときまでに、アトランタは7発を発射していたが、北軍モニター艦には1発も命中しなかった。潮位高くなって離礁可能になるためには、あと1時間半は必要と思われた。他方ウィホーケンとナハントは自由に航行しアトランタ大砲死角となる位置移動できた。アトランタ損傷大きくこれ以上抵抗は無駄であったウェブウィホーケン最初発砲から15分後、ナハントが発砲開始する前に降伏したアトランタ21名の士官124名の水兵のうち、1名が戦死し16名が重傷のため入院が必要であった

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