北部海軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/06 04:27 UTC 版)
「アトランタ (装甲艦)」の記事における「北部海軍」の解説
アトランタは北軍艦艇によって容易に離礁させることができ、ポート・ロイヤルまで自身のエンジンで航海して到着した。損害も大きくは無かったため、北部海軍がこれを購入し修理した。鹵獲の報奨金は$350,000で、ウィーホーケン、ナハントおよび信号伝達距離にいた唯一の艦艇であった砲艦、USS シマロンの乗員で分配された。北部海軍の所属となっても名前は変更されず、1864年2月2日に再就役した。武装は前後を8インチ (203 mm)・150ポンドパロット施条砲、舷側砲を6.4インチ・100ポンドパロット施条砲に置き換えられた。150ポンド砲は17口径長で重量は16,500ポンド (7,500 kg)であった。100ポンド砲は20口径長で重量は 9,800ポンド (4,400 kg)で、100ポンド砲弾を仰角25度で6,900ヤード (6,300 m)飛ばすことが出来た。南軍時代に搭載していたブルック砲は、現在ワシントン海軍工廠に保管されている。アトランタは北大西洋封鎖艦隊の所属となり、その後のほとんどの期間、ジェームズ川での任務に就き、リッチモンド・ピータースバーグ方面作戦を支援し、また南部海軍ジェームズ川艦隊所属の装甲艦の攻撃に備えた。1864年5月21日、南軍騎兵隊がポーハタン砦を襲撃した際に、アトランタと砲艦ダウンがこれを砲撃し退散させた。1865年2月のトレント・リーチの戦い(Battle of Trent's Reach)の後には、リッチモンドにいた南軍装甲艦をより効果的に封鎖するために、さらに上流に進出した。 1865年4月に戦争が終了し、アトランタは6月21日にフィラデルフィアで退役し、リーグ・アイランド(League Island)で予備役艦として係留された。1869年5月4日に、サム・ウォードに$25,000で売却され、その後12月8日にハイチ在住の代理人であるシドニー・オークスミス(アトランタを$260,000で購入し、手付金として$50,000を支払い済みであった)への引渡しのために出航しようとした。税関がしばらく出航を許さなかったが、ハイチは内戦中であり、アトランタの艦載砲4門とハイチの大統領であるシルヴァイン・サルナーヴ(Sylvain Salnave)の募集兵が多数乗艦していたため、おそらく中立法に抵触する可能性があったためであろう。アトランタは3日後に開放され、ポルトープランスに向かった。しかし、デラウェア湾で損傷し、ペンシルバニア州チェスター(Chester)で修理を行った。今度の艦名はトライアンフであり、12月18日に出航したが航海途中で行方不明となった。ハッテラス岬かデラウェア湾で沈没したと思われる。
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