北部海岸の征服
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 15:31 UTC 版)
「ホンジュラスの歴史」の記事における「北部海岸の征服」の解説
スペインはホンジュラス南部地域の征服を進めていたが、北部のカリブ海岸ではそれほど進んでいなかった。北部海岸では西部のプエルト・カバリョス(英語版)などの町が創設された。鉱物などの輸出品物が大西洋海岸からホンジュラスを通って太平洋海岸にあるこれらの町に運ばれ、続いて海運でスペインに運ばれた。また北西部内陸ではナコ(スペイン語版)やサン・ペドロ・スーラなどの町が創設された。 北東部のタグスガルパ(英語版)地域ではスペインによる征服への抵抗が続き、16世紀中は武力で、それが失敗した後の17から18世紀では宣教士の教えに抵抗した。北部海岸や近隣のニカラグアではミスキート族がその一部であり、民主的で公平的であったが王を擁していたためミスキート王国(英語版)と呼ばれる。 スペイン当局にとって頭痛の種だったのは、薄く支配していたに過ぎなかったホンジュラス北部におけるイギリスの活動である。イギリス人の活動は16世紀から19世紀まで続き、初期にはヨーロッパ人海賊がたびたびホンジュラスのカリブ海岸の村に襲撃した。例えば、プロヴィデンス島植民地(英語版)を支配していたプロヴィデンス島会社(英語版)は度々ホンジュラスを襲撃しており、ホンジュラス海岸のおそらくグラシアス・ア・ディオス岬近くに集落を維持していた。1638年頃、ミスキート王がイングランドを訪れ、イングランド王国と同盟を締結した。1643年、イングランドの遠征隊がホンジュラスの主要港口であるトルヒーヨ(英語版)市を破壊した。
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