16世紀から19世紀まで
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「ヴァインスベルク」の記事における「16世紀から19世紀まで」の解説
ランツフート継承戦争では、1504年にヴュルテンベルク公ウルリヒが3週間の包囲戦の後ヴァインスベルクの城と街を占領した。1512年にプファルツ選帝侯とヴュルテンベルク公の間で締結されたウラッハ条約によりヴァインスベルクは正式にヴュルテンベルク領となった。1520年には全ヴュルテンベルク領と共にオーストリア領となった(1534年まで)。 ドイツ農民戦争では、1525年4月16日、イースターの日曜日に城と街が蜂起した農民達に占拠された。城は略奪された後、火がつけられ、城はこれ以来廃墟となった。ヴァインスベルクで捕らえられた官僚で全ヴュルテンベルクの農村の総代官であったヘルフェンシュタイン伯ルートヴィヒ・ヘルフリヒは、供の騎士や従者と一緒に市壁の前で槍を構えた兵士の間を歩かされ、なぶり殺しにされた。この「ヴァインスベルク血のイースター」はシュヴァーベン同盟の復讐心を呼び起こし、5月21日にヴァインスベルクは焼き討ちされた。この都市は自治権や都市権を奪われ、都市の収入はそのまま直接上級官庁に納められた。市民らは毎年200グルデンの賠償金の支払いを強いられた。また、ヘルフェンシュタイン伯の遺族への慰謝料の支払いも、1534年までヴァインスベルクに求められた。さらに、破壊された建造物の再建が禁じられたが、これはその年の内に撤回された。この禁令を解いた1525年11月17日付けの復讐断念書では、塔を含む全市壁の破壊も定められたが、これは実行されなかった。ウルリヒがヴュルテンベルクに帰還した1534年以降ヴァインスベルクは彼に忠誠を誓い、再び「都市」と呼ばれるようになった。ただし、公式にヴァインスベルクが再び都市権を得たのは、1553年、ヴュルテンベルク公クリストフに再びこれを与えられた後である。 シュマルカルデン戦争では、1546年12月21日にヴァインスベルクは、皇帝カール5世によって戦闘行為のないまま占領された。続いて1549年11月から1551年10月までは、スペイン軍がこの都市に駐留した。その後、数十年は静寂が訪れた。しかし感染症、すなわち1529年の「イギリス汗」(回帰熱あるいは腎症候性出血熱ではないかと推定されている)、1571年、1585年、1597年、1612年のペスト、によってその静寂はしばしば破られた。 三十年戦争の時代、何度も兵士がヴァインスベルクに駐留した。1634年9月、皇帝軍に落ち、街は略奪され、10人が殺害された。1625年と1635年にペストが流行し、1640年までに人口のおよそ2/3が失われた。同じ1635年には、皇帝フェルディナント2世がヴァインスベルクの城と街をトラウトマンスドルフ伯マクシミリアンに贈ったが、1646年にどちらもヴュルテンベルク公に返還された。このエピソードに基づき、マクシミリアンの子孫は現在でも「フォン・トラウトマンスドルフ=ヴァインスベルク」と称する。 1649年から1742年までヴァインスベルクは(メックミュールやノイエンシュタット・アム・コッハーとともに)ヴュルテンベルク=ノイエンシュタット家の支配下にあった。この間の1707年8月19日に都市の2/3を焼く大火災が起き、市内は数年のうちに再建された。この時の再建では、広くて明るい通りがマルクト広場を貫くように造られたものの、市内は主なワイン製造所が利用する入り組んだ細い道が張り巡らされた中世風のたたずまいが遺された。1755年にヴァインスベルクはオーバーアムト(上級地方行政機関)の所在地となった。 1817年、特に北米への移民ブームが訪れた。このブームは19世紀末まで続いた。その背景には、経済的事情(たとえば、凶作による困窮)の他に、政治的事情もあった。後に有名になるフリードリヒ・リスト(かつてはヴュルテンベルクの会計官だったこともある)は、1817年の春、移民ブームの背景を調査するためにヴァインスベルクに送られた。彼はその主因を封建的な権限(たとえば夫役など)や、個人レベルでは、傲慢不遜な官吏であるとした。彼がシュトゥットガルトの政府に提出した報告書には、その核心部分に、移民たちは「ヴァインスベルクの市民であることよりもアメリカで奴隷となることを望んだのだ」と書かれている。1892年になってやっと、北米への移民ブームの終焉が訪れた。工業化とそれに基づく経済発展が、市民の生活状況を改善したのであった。 詩人で医者のユスティヌス・ケルナーは、1819年から1862年に亡くなるまでヴァインスベルクに住んだ。1822年に建てられた彼の家、ケルナーハウスにはルートヴィヒ・ウーラント、グスタフ・シュバープ、ニコラウス・レーナウといった親しい詩人たちがしばしば訪れ、ヴァインスベルクは「シュヴァーベンのヴァイマル」との称号を授けられた。ケルナーは郷土保護・記念物保護の面でも活躍した。彼は城址の撤去を阻止した。城は時代とともに荒廃し、ヴァインスベルク市民たちは、これを都合の良い石材として利用しようとしていた。さらにケルナーは城址の維持管理のために142人のヴァインスベルク女性とともにヴァインスベルク女性協会を創設し、1824年にはヴュルテンベルク王ヴィルヘルム1世からこの協会に城址が下賜された。この協会は現在も残っている。(現在の名称は、Justinus-Kerner-Verein und Frauenvereins Weinsberg(「ユスティヌス・ケルナー協会およびヴァインスベルク女性協会」))である。 1860年から1862年に、ハイルブロンからヴァインスベルクを経由してシュヴェービッシュ・ハルへ行く鉄道が建設され、1867年にはさらにクライルスハイムまでつながった。この鉄道はヴァインスベルクに発展をもたらし、繁栄を持続させた。1868年に、長い準備の末、王立ブドウ栽培学校ヴァインスベルクが創設された。学校は名前を変え、現在も運営されている。
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