16世紀から19世紀の争乱の時代
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「シュヴィーバーディンゲン」の記事における「16世紀から19世紀の争乱の時代」の解説
16世紀から17世紀にシュヴィーバーディンゲンは、戦争と疫病に酷く苦しめられた。ペストは3回にわたってこの村を襲った。1584年8月だけで88人が疫病で亡くなった。すでに大幅に減少していた住民達は新たな脅威にさらされた。平時に通行する商人が街道沿いの町に好ましい影響を与えるのと同じく、戦争時に通る軍勢は貧困と苦悩をもたらした。三十年戦争は人口をさらに減少させた。シュヴィーバーディンゲンは略奪と焼き討ちに苦しめられた。この時代、9年間にわたって教会簿に記事がない。聖具室の銘によれば、村は完全にうち捨てられていた。1688年から1707年の間に繰り返されたフランス軍の襲来はさらなる荒廃と経済的損害をもたらした。1707年にヴィラール元帥に率いられたフランス軍が再びライン川を渡って侵入し、6月4日にシュヴィーバーディンゲンに宿営した。2日間の交渉の末、ヴュルテンベルク政府は100万グルデンで国の保全を得た。これはこの町で作成されたシュヴィーバーディンガー協定に文書化されている。 18世紀末直前に再び軍隊がこの町に侵攻してきた。墓地に建つオーストリア司令官ハインリヒ・フォン・パルツァーの墓石がオーストリアとフランスとの戦いを物語っている。おそらくこのオーストリアの後衛部隊は街道とグレムス川徒渉地を護ろうとしていたのであった。 オーバーアムト・マルクグレーニンゲンに属すこの町の住民に犠牲を強いたのは、戦争だけではなかった。頻繁に起こる凶作や分割相続権が、この領邦の住民を貧しくしていった。飢餓や失業が、19世紀のポーランド、ハンガリー、アメリカ合衆国への移住に拍車をかけた。 1806年に建国されたヴュルテンベルク王国の新たな行政制度の発効により、シュヴィーバーディンゲンは1807年にオーバーアムト・ルートヴィヒスブルクに属すこととなった。
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