16世紀からナポレオン戦争
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「デンマーク海軍」の記事における「16世紀からナポレオン戦争」の解説
1559年にフレゼリク2世が即位し海軍は更に拡大し始める。基地、造船所そして船舶数は急激に増加し、新しい船の設計、武器、戦闘戦術に相当な資源が注ぎこまれた。一方、スウェーデンは独立国となり、バルト海の大部分を支配下に置き、デンマーク商人の利益を脅かした。第一次北欧戦争(1563年から1570年)では両国は海軍力でも対峙し、以後徐々にスウェーデンはバルト海に影響力を及ぼし始めることとなる。1645年には、トルステンソン戦争で海軍はオランダ海軍と共闘したスウェーデン海軍に勢力を大幅に削がれ、バルト海での権益を失った。これに加え、エーレスンド海峡の海峡税免除を認めさせられている。こうしたことからデンマークは報復行動に出て、1568年にエーレスンド海峡を封鎖、スコーネ戦争(1675年から1679年)の最初の種がまかれた。これは第二次北欧戦争(1657年から1660年)後わずか8年でデンマークは現在のスウェーデン領であるスコーネ(Skane)、ハッランド(Halland)およびブレーキンゲ地方(Blekinge)の喪失に繋がった。この間、国家資源は更に海軍に注がれた。コート・アドラー(Cort Adler)、ニールス・ユール(en:Niels Juel)は1677年のキューゲ湾の海戦(en:Battle of Køge Bay)でデンマーク海軍を勝利に導いた。17世紀後半はスウェーデン海軍に対して優位を持っていた。スコーネ戦争ではオランダ海軍と共闘が叶いバルト海南部においてスウェーデン海軍に対して海戦で勝利を積み重ねた(弱体化していたスウェーデン海軍はこれによって壊滅的な打撃を受けることとなった)。しかしフランスの介入と軍事的圧力によって全てが第二次北欧戦争終結時(1660年)の状態に戻されることとなった。 1588年に即位したクリスチャン4世は父の方針を引き継いで海軍を拡大させる。17世紀初めには有名なコペンハーゲンの海軍兵舎が建設され、この中で最も有名なものはコペンハーゲン中央にある1631年に完成したニュボーダー(en:Nyboder)である。 海軍総代理官であったウルリク・クリスチャン・ギルデンレーヴェ(en:Ulrik Christian Gyldenløve, Count of Samsø)は1701年に海軍最高司令官に任命される。ギルデンレーヴェは海軍の職位を引き上げ、王立海軍士官学校の前身であるSøkadetakademieが設立される。1709年にペーター・ヤンセン・ヴェッセル(Peter Jansen Wessel)が海軍に加わり、多くの勝利を上げ提督の地位が与えられ、後にトルデンスキョルとして知られる。 大北方戦争においてデンマークは北方同盟に参加した。当初はスウェーデン西方海軍の圧力により北方同盟からの離脱を強いられたが、1709年に再参戦し、1712年にスウェーデン海軍のクルーザー80隻を焼き払い、トルデンスキョルはこの戦果で大きな役割を果たす。さらにスウェーデン海軍が1712年にハンゲの海戦でロシア海軍に敗れた後、1716年に北方同盟諸国は、スウェーデン本土侵攻を画策し、コペンハーゲンに艦隊を集結させたが同盟諸国の足並みがそろわず作戦は中止された。その後、ノルウェーを侵略したスウェーデンに対して海軍は糧道を絶たせることに成功し、1718年にスウェーデン王カール12世が戦死したこともあってノルウェーを保持することができた。しかしデンマークは以前のようなバルト海における権益を取り返すことは出来なかった。バルト海での海軍力は、すでにロシア海軍によって制せられていたためであった。 1720年にデンマークとスウェーデンはフレデリクスボー条約で講和したものの、既に北方同盟は分解しており、デンマークはエーレスンド海峡南部の以前の領土を取り戻す軍事的状況になかった。しかしスウェーデンはデンマークに対して多くの権利を講和条約で放棄したこともあってスカンディナヴィアは平和な状態となり残された。こうした平和の中で海軍は植民地獲得に乗り出した。世界の他の地域には注力せずアフリカ大陸やカリブ海に資源を集中させた。恒久的海軍は地中海での存在影響力を維持した。この地域におけるデンマーク=ノルウェーの意図は主に海賊行為から自国船を保護することにあった。デンマーク地中海艦隊は17隻の艦船と1,800人の水兵を持ち、多くのバーバリ諸国との間で軽微な衝突が交わされていた。これらの衝突は次第に実質的な戦闘行為に発展していった。多くの名士たちが戦闘に身を投じており、1770年にフレデリク・クリスチャン・カース海軍少将(Frederik Christian Kaas)指揮下の艦隊はアルジェ砲撃を、1797年には船長であり後に枢密院参議となるステーン・アンデルセン・ビレ(Steen Andersen Bille)はトリポリ攻撃を、そして1844年には共同スカンディナヴィア探検が実施され、長であったハンス・ゲオルク・ガルデ(Hans Georg Garde)による航海は事実上この地域におけるスカンディナヴィア商人に対するバーバリ諸国の攻撃を終結させた。北アフリカおけるデンマークの権益は、主に中立貿易の保護であり、スウェーデンと同じく地中海における貿易権の確保にあった。しかしながらデンマークは基本的に中立政策であったため、19世紀におけるこの地域の植民地化は、イギリスやフランスが進出していたこともあって行われなかった。これら北アフリカのバーバリ海賊との戦いは、バーバリ戦争と呼ばれ、ヨーロッパ列強がこの地域の植民地化の足がかりとしており、そこにデンマークなど北欧諸国の入り込む余地はすでに無かった。 ナポレオン戦争期、イギリスはナポレオン・ボナパルトが経済的にデンマーク商人から利益を得ていると考えたので、フランスの圧力下にあるデンマークの海外貿易は日々悪化していった。1801年、コペンハーゲンの海戦でハイド・パーカー提督の指揮下のイギリス艦隊はデンマーク防衛線を攻撃することを決した。防衛線はオルフェルト・フィッシャー(en:Olfert Fischer)指揮下で守られるも攻撃力不足で容易に制圧された。この海戦の結果デンマークはイギリスとの停戦を余儀なくされた。この6年後、1807年の第二次コペンハーゲンの戦いまでデンマークはナポレオン戦争に関与しなかった。イギリスはデンマーク艦隊がナポレオン管理下になることを恐れており、クリスチャン7世は戦争終結まで自国艦隊を引き渡すことを拒絶し、その結果イギリスは軍事行動に移った。戦闘後、ガンビア提督の下でコペンハーゲン砲撃(9月2日から5日まで)が起きる。通常、この砲撃は艦隊による最初のテロ攻撃であると認められ、政治目標達成のために一般市民を攻撃対象とし実施された。この攻撃の結果、デンマークは降伏し、コペンハーゲンのほとんど全ての軍艦が没収された。このイギリスとの戦争で、海軍はイギリス海軍によって海軍力を大幅に縮小させられることとなった。 1814年に300年以上共にあったデンマーク=ノルウェーは、ナポレオン戦争の勝利国としての立場にあるスウェーデンにノルウェーを引き渡され、同時に共同船団監獄はデンマーク王立海軍とノルウェー王立海軍に分割される。別離したノルウェー海軍はスウェーデン海軍とは別々のものとして扱われた。 デンマーク海軍は徐々に再建されるも、かつての規模には程遠いものであった。それでもなお海軍は信頼が置かれアフリカとカリブ海に対する関心は依然として注目を集めており、1845年にはコルベット「ガラテア(Galathea)」が2年間におよぶ遠征を実施した。第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(1864年)当時のデンマーク海軍は比較的小規模で時代遅れであった。ヘルゴラント海戦の様に戦術的には勝利したものの、戦争の帰趨には何の影響も与えなかった。これは海軍が関わった大規模な海戦として最後のものであった。そのため海軍の近代化の必要が認められ、第一次世界大戦でデンマーク海軍は主に蒸気装甲艦と少数の帆船を装備した近代海軍となっていた。
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