16世紀からナポレオン戦争とは? わかりやすく解説

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16世紀からナポレオン戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 01:54 UTC 版)

デンマーク海軍」の記事における「16世紀からナポレオン戦争」の解説

1559年フレゼリク2世即位し海軍は更に拡大し始める。基地造船所そして船舶数は急激に増加し新しい船の設計武器戦闘戦術に相当な資源注ぎこまれた。一方スウェーデン独立国となり、バルト海大部分支配下に置き、デンマーク商人利益脅かした第一次北欧戦争1563年から1570年)では両国海軍力でも対峙し、以後徐々にスウェーデンバルト海影響力及ぼし始めることとなる。1645年には、トルステンソン戦争海軍オランダ海軍共闘したスウェーデン海軍勢力大幅に削がれ、バルト海での権益失った。これに加えエーレスンド海峡海峡免除認めさせられている。こうしたことからデンマーク報復行動出て1568年エーレスンド海峡封鎖スコーネ戦争1675年から1679年)の最初の種がまかれた。これは第二次北欧戦争1657年から1660年)後わずか8年デンマーク現在のスウェーデン領であるスコーネ(Skane)、ハッランドHalland)およびブレーキンゲ地方Blekinge)の喪失繋がったこの間国家資源は更に海軍注がれた。コート・アドラー(Cort Adler)、ニールス・ユール(en:Niels Juel)は1677年キューゲ湾の海戦en:Battle of Køge Bay)でデンマーク海軍勝利導いた17世紀後半スウェーデン海軍に対して優位持っていた。スコーネ戦争ではオランダ海軍共闘叶いバルト海南部においてスウェーデン海軍に対して海戦勝利を積み重ねた弱体化していたスウェーデン海軍はこれによって壊滅的な打撃を受けることとなった)。しかしフランスの介入軍事的圧力によって全て第二次北欧戦争終結時(1660年)の状態に戻されることとなった1588年即位したクリスチャン4世は父の方針引き継いで海軍拡大させる17世紀初めに有名なコペンハーゲン海軍兵舎建設されこの中で最も有名なものはコペンハーゲン中央にある1631年完成したニュボーダー(en:Nyboder)である。 海軍総代理官であったウルリク・クリスチャン・ギルデンレーヴェ(en:Ulrik Christian Gyldenløve, Count of Samsø)は1701年海軍最高司令官任命される。ギルデンレーヴェは海軍職位引き上げ王立海軍士官学校前身であるSøkadetakademieが設立される1709年にペーター・ヤンセン・ヴェッセル(Peter Jansen Wessel)が海軍加わり多く勝利を上げ提督地位与えられ、後にトルデンスキョルとして知られる大北方戦争においてデンマーク北方同盟参加した当初スウェーデン西方海軍圧力により北方同盟からの離脱強いられたが、1709年に再参戦し1712年スウェーデン海軍クルーザー80隻を焼き払い、トルデンスキョルはこの戦果大きな役割を果たす。さらにスウェーデン海軍1712年ハンゲの海戦ロシア海軍敗れた後、1716年北方同盟諸国は、スウェーデン本土侵攻画策しコペンハーゲン艦隊集結させたが同盟諸国足並みがそろわず作戦中止された。その後ノルウェー侵略したスウェーデンに対して海軍糧道を絶たせることに成功し1718年スウェーデン王カール12世戦死したこともあってノルウェー保持することができた。しかしデンマーク以前のようなバルト海における権益取り返すことは出来なかった。バルト海での海軍力は、すでにロシア海軍によって制せられていたためであった1720年デンマークとスウェーデンフレデリクスボー条約講和したものの、既に北方同盟分解しており、デンマークエーレスンド海峡南部以前領土取り戻す軍事的状況になかった。しかしスウェーデンデンマークに対して多く権利講和条約放棄したこともあってスカンディナヴィア平和な態となり残された。こうした平和の中で海軍植民地獲得乗り出した世界他の地域には注力せずアフリカ大陸カリブ海資源集中させた。恒久的海軍地中海で存在影響力維持した。この地域におけるデンマーク=ノルウェー意図は主に海賊行為から自国船を保護することにあったデンマーク地中海艦隊17隻の艦船1,800人の水兵持ち多くのバーバリ諸国との間で軽微な衝突交わされていた。これらの衝突次第実質的な戦闘行為発展していった。多く名士たちが戦闘身を投じており、1770年にフレデリク・クリスチャン・カース海軍少将(Frederik Christian Kaas指揮下の艦隊アルジェ砲撃を、1797年には船長であり後に枢密院参議となるステーン・アンデルセン・ビレ(Steen Andersen Bille)はトリポリ攻撃を、そして1844年には共同スカンディナヴィア探検実施され、長であったハンス・ゲオルク・ガルデ(Hans Georg Garde)による航海事実上この地域におけるスカンディナヴィア商人対するバーバリ諸国攻撃終結させた。北アフリカおけるデンマーク権益は、主に中立貿易保護であり、スウェーデン同じく地中海における貿易確保にあったしかしながらデンマーク基本的に中立政策であったため、19世紀におけるこの地域植民地化は、イギリスフランス進出していたこともあって行われなかった。これら北アフリカバーバリ海賊との戦いは、バーバリ戦争呼ばれヨーロッパ列強がこの地域植民地化足がかりとしており、そこにデンマークなど北欧諸国入り込む余地はすでに無かったナポレオン戦争期イギリスナポレオン・ボナパルト経済的にデンマーク商人から利益得ていると考えたので、フランス圧力下にあるデンマーク海外貿易日々悪化していった。1801年コペンハーゲンの海戦ハイド・パーカー提督指揮下のイギリス艦隊デンマーク防衛線を攻撃することを決した防衛線はオルフェルト・フィッシャー(en:Olfert Fischer指揮下で守られる攻撃力不足で容易に制圧された。この海戦結果デンマークイギリスとの停戦余儀なくされた。この6年後、1807年第二次コペンハーゲンの戦いまでデンマークナポレオン戦争関与しなかった。イギリスデンマーク艦隊ナポレオン管理下になることを恐れており、クリスチャン7世戦争終結まで自国艦隊引き渡すことを拒絶しその結果イギリス軍事行動移った戦闘後ガンビア提督の下でコペンハーゲン砲撃9月2日から5日まで)が起きる。通常、この砲撃艦隊による最初テロ攻撃であると認められ政治目標達成のために一般市民攻撃対象とし実施された。この攻撃結果デンマーク降伏しコペンハーゲンのほとんど全ての軍艦没収された。このイギリスとの戦争で、海軍イギリス海軍によって海軍力大幅に縮小させられることとなった1814年300年以上共にあったデンマーク=ノルウェーは、ナポレオン戦争勝利としての立場にあるスウェーデンノルウェー引き渡され同時に共同船団監獄デンマーク王立海軍ノルウェー王海軍分割される別離したノルウェー海軍スウェーデン海軍とは別々のものとして扱われた。 デンマーク海軍徐々に再建されるも、かつての規模には程遠いものであったそれでもなお海軍信頼置かれアフリカカリブ海対す関心依然として注目集めており、1845年にはコルベットガラテアGalathea)」が2年間におよぶ遠征実施した第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争1864年当時デンマーク海軍比較小規模時代遅れであったヘルゴラント海戦様に戦術的に勝利したものの、戦争帰趨には何の影響与えなかった。これは海軍が関わった大規模な海戦として最後のものであった。そのため海軍近代化の必要が認められ第一次世界大戦デンマーク海軍は主に蒸気装甲艦少数帆船装備した近代海軍となっていた。

※この「16世紀からナポレオン戦争」の解説は、「デンマーク海軍」の解説の一部です。
「16世紀からナポレオン戦争」を含む「デンマーク海軍」の記事については、「デンマーク海軍」の概要を参照ください。

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