16世紀から19世紀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/06 09:10 UTC 版)
「リムブルク・アン・デア・ラーン」の記事における「16世紀から19世紀」の解説
ドイツ農民戦争の動乱を承けて1525年にリムブルク住民も騒乱を起こした。トリーア選帝侯が住民たちにルター派聖職者を本市から追放するよう要求したため、議員資格を持たない住民からなる委員会は5月24日に30項目の要求リストを提出した。その中には主に、財務決定に関与することと、税、交易、建設問題における商人との公正な取り扱いが要求されていた。この要求は委員会と議会との数日間の交渉で16項目にまで絞り込まれ、その後選帝侯との協議に入った。しかし8月5日に大司教リヒャルトは、議会は市民に対する全ての譲歩を撤回するよう命令した。さらに集会の禁止と、議員資格を持たない市民が2人の代表者を議会に出席させていたことも禁ずることを命じた。 宗教改革がこの街にさらなる紛争をもたらした。しかし、トリーア選帝侯領に属していたためこの街はカトリックに留まった。街の修道院は打撃を受けた。ヴィルヘルミーテン修道院は1568年に最後の修道院長が亡くなった後に、フランシスコ会修道会は1577年から1582年の間に閉鎖された。 三十年戦争の間、リムブルクは1631年と1635年に行軍する兵士に略奪され、包囲された。交通の便が良い立地であることから本市は行軍ルートの一部となっており、このため兵士たちは住民の近くで宿営することを好んだ。翌世紀の第一次対仏大同盟戦争でもリムブルクは無傷では済まなかった。1796年に撤退中のフランス軍は、いわゆるリムブルクの戦いでオーストリア軍がラーン川を渡ることを阻止しようとした。砲兵戦で街の一部が焼失した。 リムブルクのフランシスコ修道会は1635年に、その2年前に設立されたテューリンゲン・フランシスコ会修道管区の一部となり、急速にその中心となっていいた。この管区は1762年までリムブルクに本部を置いており、1811年まで管区の中央修道院が設けられていた。フランシスコ会は、1664年に街の若者のためのギムナジウムを開校し、1749年にこれを拡張した。 1760年代に学校制度の根本的な改革がなされた。数多くの私塾が閉鎖され、中世から存在する2つの学校、すなわち男子のためのシュティフツシューレと女子のためのノネンシューレに加えて、さらに2校が設けられた。両校は市のホスピタルファウンドから経済支援を得た。こうして病院の建物内に男子のためのホスピタルシューレと女子のためのユングフェルンシューレが設立された。18世紀末に女子校の2校は統合され、参事会組織の解散によって著しく縮小されていたシュティフツシューレは1817年にホスピタルシューレに併合された。1813年にフランシスコ会修道院が廃止された。これに伴いフランシスコ会のギムナジウムも活動を停止し、リムブルクはラテン語学校を有しない、したがって上級の学校に進学する機会を提供する施設のない都市となった。その後、私立のラテン語学校を設立しようとする試みが何度も行われたが、いずれも短期間で閉校した。最終的に1837年に都市教区司祭カスパー・ハルムが、かつてのフランシスコ会ギムナジウムのスペースにラテン語学校を開設する認可を公爵から得た。1846年に、以前失敗した邦立実科学校が、今度は市の学校理事会の主導で、前回と同じ病院施設内に設立された。これにより私立のラテン語学校は廃止された。プロイセンによるナッサウ併合後、この実科学校はプロイセンの学校システムに従って、1869年まで高等市民学校に改編された。その後この学校はギムナジウムとなり、1903年に初めてアビトゥーアを授与する資格を得た。1872年にホスピタール通りに女学校のための新しい建物が完成した。さらにその後、ホスピタールシューレから遠くないヴェルナー=ゼンガー通りに国民学校がもう1校設けられた。体操の授業は、19世紀にロスマルクト(直訳: 馬市)のホールで行われた。 1806年にリムブルクは、新設されたナッサウ公国に編入され、900年に渡って存続した参事会が廃止されて、参事会教会は教区教会となった。1818年には市壁が解体された。同じ年に最初の実科学校が設けられたが、実際に授業が始まったのは1819年からで、1824年には閉校した。1827年、ナッサウ公ヴィルヘルムの請願によりこの街はカトリックの司教座都市に昇格し、教区教会は聖堂の地位を獲得した。1830年にコルンマルクトの市壁が破壊され、その後完全に取り壊された。1848年の自由化運動は、リムブルクのカトリック信者が何世紀もの間ベーゼリヒのマリアの救済巡礼礼拝堂に詣でており、強い信仰心を持っていることを知らしめることとなった。普墺戦争の結果、1866年にリムブルクはプロイセン領となったが、それ以前の1862年からリムブルクは鉄道の重要な結節点となっていた。リムブルクは1886年に新設されたリムブルク郡の郡庁所在地となり、王が指名する郡長の所在地となった。 街の消防団は1867年2月6日に創設され、石けん工場主のヨーゼフ・ミュラーが団長に選ばれた。リムブルク消防団は、1873年6月2日に、設立後最初のヴィースバーデン県消防連盟の連盟集会の主催者となった。 1892年にパロッティ会(ドイツ語版、英語版)修道士が初めてドイツに来て、リムブルクに拠点を置いた。1895年にパロッティ女子修道会もこれに続いた。ヴァルダードルファー・ホーフは手狭であったため、この宗教団体は1896年に土地を取得し、最初に伝道所を建設した後、1926年/1927年にカトリックの聖マリエン修道院教会を建設した。 1900年に市の行政当局はヴェルナー=ゼンガー通りの新しい市庁舎に入居した。
※この「16世紀から19世紀」の解説は、「リムブルク・アン・デア・ラーン」の解説の一部です。
「16世紀から19世紀」を含む「リムブルク・アン・デア・ラーン」の記事については、「リムブルク・アン・デア・ラーン」の概要を参照ください。
- 16世紀から19世紀のページへのリンク