16世紀から第二次世界大戦まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/09 07:56 UTC 版)
「アファルターバッハ」の記事における「16世紀から第二次世界大戦まで」の解説
この集落の詳細な記録は1525年に初めて現れる。当時アファルターバッハには43軒、ヴォルフゼルデンには3軒の家があり、269人が暮らしていた。1584年までに戸数や人口はほぼ倍増した。三十年戦争はアファルターバッハに大きな被害をもたらした。1640年頃には生き延びた住民たちは故郷を離れ、1649年春まで破壊と完全な荒廃のなすがままであった。1652年に状況調査が行われたが、無傷で住居可能な家屋は1軒もなかった。それからおよそ50年後の1703年には、アファルターバッハに 344人が住んでいた。その後100年以内にその数は3倍になった。1802年のアファルターバッハの人口は1,033人であった。 生活環境は同じであったため、こうした発展は社会問題を引き起こした。それにもかかわらず人口はその後急増した。1864年には1,532人のそれまでの最大値となった。これによりアファルターバッハはアムト・マールバッハの重要な自治体の1つとなった。国全体がそうであったようにアファルターバッハにおいても、農業では多くの人口を養えない状態にあり、経済環境は劣悪であった。かなりの数の住民が手工業に携わった。ヴュルテンベルク王国が成立した1806年時点でアファルターバッハには、少なくとも仕立職人10人、機織職人18人、靴職人8人、食肉職人4人、粉挽き職人1人、パン職人4人、鍛冶職人5人、車職人3人、樽職人4人、左官職人7人、大工7人、家具職人2人、羊飼い2人、理髪師1人がいた。その多くは、最低レベルの生活すら得られなかった。そのため多くの人々が故郷を離れ、遠くに幸運を求めた。1816年から1910年までに496人のアファルターバッハ住民が転出した。その多く(383人)がアメリカに向かった。19世紀末に工業化が始まったことでやっと経済状態が改善された。発展はアファルターバッハを、文字通り、通り過ぎていった。交易や商売はここに定着しなかった。アファルターバッハは農業の町として存続することを望み、町議会はこれに貢献した。このため多くの人々が街を去って行った。人口は減少を続け、1939年には1,034人の極小値を記録した。 ナチ時代のヴュルテンベルクの郡再編により、1938年にアファルターバッハはバックナング郡に属すこととなった。
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