16世紀から現在まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/15 08:53 UTC 版)
スレイマン1世やキャーティプ・チェレビー、エヴリヤ・チェレビが16世紀や17世紀、チャチャクはカーディーにとってチャチャクは主要な場所であると話している。1717年、ハプスブルク君主国がオスマン帝国に勝利し、チャチャクはその一部となった。そしてその21年後チャチャクは再びオスマン帝国の一部となった。その後、北の人々がハプスブルク帝国へと移ってチャチャクは空白地となった。そこにモンテネグロやボスニア、ヘルツェゴビナからやってきた人々やヴラフ人がやって来た。今日では住民の90%が彼らの子孫である。 チャチャクの紋章には2つの年号が記されている。最初の1408年はこの都市がチャチャクという名で最初に記録された年(ドゥブロヴニクの古文書の一つによる)で、もう一方の1815年は第二次セルビア蜂起(英語版)が始まり、リュビツの丘で戦いがあった年である。この戦いはセルビアの反乱勢力が6万人もの強力なオスマンの軍勢を2度討ち破ったことで知られる。 1837年にはセルビアで最初の文法学校のうちの一つが建てられた。1837年~1947年の間にチャチャクは近代都市へと変貌した。第二次世界大戦中、チャチャクは短命政権ウジツェ共和国(英語版)の一部となった。同国は建国して間もなくドイツ軍によって滅ぼされた。1944年12月4日にチャチャクはパルチザンにより解放された。
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