軍事的状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 17:18 UTC 版)
1932年(昭和7年)の日満議定書により、日本は満州国の防衛に責任を持つと定められ、関東軍は満州全土に駐留することになった。朝鮮半島に近い地域については、朝鮮軍の管轄下とされた。満州国独自の軍事力として満州国軍が整備されており、1935年時点では歩兵旅団26個と騎兵旅団7個の計7万人と称したが、練度や装備状態は良好とはいえなかった。 一方、ソ連は、1929年から特別極東軍(1930年以降は特別赤旗極東軍と呼称)を極東方面に置いており、次第に増強を進めて張鼓峰事件直前の1938年7月1日には極東戦線(極東方面軍)に改編した。モンゴルとは1934年(昭和9年)11月に相互援助に関する紳士協定で事実上の軍事同盟を結び、紛争が増加しつつあった1936年(昭和11年)3月にはソ蒙相互援助議定書として明確化した。ソ蒙相互援助議定書に基づき、1936年夏からソ連軍機甲部隊がモンゴル領に常駐するようになり、翌年には軍団規模に達した。モンゴル独自の軍事力であるモンゴル人民革命軍はソ連の援助で整備され、1933年には騎兵師団4個と独立機甲連隊1個、1939年初頭には騎兵師団8個と装甲車旅団1個を有していた。 満州方面における日ソ両軍の戦力バランスは、ソ連側が兵力で優っていた。1934年6月の時点で日本軍は関東軍と朝鮮軍合わせて5個歩兵師団であったのに対し、日本側の推定によればソ連軍は11個歩兵師団を配備していた。それが、1936年末までには日本軍が変化がないのに対し、ソ連軍は16個歩兵師団に増強され、対日戦力比は日本:ソ連=1:2から1:3に開いた。戦車や軍用機についての兵力差はさらに大きかった。日本軍も軍備増強を進めたが、日中戦争の勃発で中国戦線での兵力需要が増えた影響もあって容易には進まず、1939年になっても日本の11個歩兵師団に対してソ連の30個歩兵師団と差は縮まらなかった。 なお、満蒙国境では、日ソ両軍とも最前線には兵力配置せず、それぞれ満州国軍とモンゴル軍に第一義的な警備任務を委ねていた。
※この「軍事的状況」の解説は、「日ソ国境紛争」の解説の一部です。
「軍事的状況」を含む「日ソ国境紛争」の記事については、「日ソ国境紛争」の概要を参照ください。
- 軍事的状況のページへのリンク