モントリオールでの不満
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/01 18:42 UTC 版)
「カナダ侵攻作戦」の記事における「モントリオールでの不満」の解説
モントゴメリー将軍はモントリオールを発ってケベック市に向かう際、市の管理をコネチカット出身のデイビッド・ウースター准将の手に預けていた。ウースターは当初そこの地域社会とまともな関係を築いていたが、地元の大衆がアメリカの軍隊が駐屯していることを嫌い始めるような多くの失政を行った。アメリカ人の抱く理想を大衆に約束した後でロイヤリストを逮捕し、アメリカ側に楯突く者は誰でも逮捕と刑罰で脅すようになった。また幾つかの地域社会を武装解除させ、地元の民兵隊員にはイギリスからの任命を放棄するよう強制し、それを拒んだ者は逮捕されシャンブリー砦に拘禁された。このような行動は、アメリカ側が物資や労働に対して硬貨ではなく紙幣で払っていたという事実と相まって、アメリカ側がやろうとしていること全体に対する地元住民の幻滅を生むことになった。1776年3月20日、ウースターはケベック市包囲中の部隊の指揮を執るためにモントリオールを離れ、アーノルドが到着する4月19日までの間、第2カナダ人連隊を立ち上げたモーゼス・ヘイズンにモントリオールの管理を委ねた。 4月29日に大陸会議からの代表団3人が、フィラデルフィアからのカトリックの聖職者1人やフランス人出版者1人と共にモントリオールに到着した。大陸会議はこの代表団に、ケベックの状況を評価し、そこでの世論をアメリカ側に誘導するような任務を宛てていた。代表団にはベンジャミン・フランクリンもいたが、既に住民との関係がひどく悪化していたので、ほとんど何もできなかった。代表団は累積されていた住民への負債を解決するために硬貨を持ってきたわけでもなかった。カトリックの聖職者がアメリカ側の大義につかせようとしたが、これも失敗した。地元の聖職者はイギリスの議会によって成立していたケベック法で彼らの望むことは与えられていると指摘した。出版者のフルーリー・メスプレは新聞発行の準備をする一方で、代表団にとって事態が空回りし始める前に何かをする時間が無かった。ケベック市の大陸軍がパニック状態に陥って退却をしているという報せを受けた後、フランクリンと聖職者は5月11日にモントリオールを離れ、フィラデルフィアに戻った。代表団の他の2人、サミュエル・チェイスとチャールズ・キャロルはモントリオールの南部と東部の軍事的状況を分析し、そこが防御線を布く好位置だと分かった。5月27日、彼らは大陸会議に対するこの事態の報告書を書き、南に向けて出発した。
※この「モントリオールでの不満」の解説は、「カナダ侵攻作戦」の解説の一部です。
「モントリオールでの不満」を含む「カナダ侵攻作戦」の記事については、「カナダ侵攻作戦」の概要を参照ください。
- モントリオールでの不満のページへのリンク