モントリオールからケベック
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/31 14:39 UTC 版)
「リチャード・モントゴメリー」の記事における「モントリオールからケベック」の解説
続いてモントゴメリーは軍隊をモントリオールに向けた。出発後、地面には雪、水と氷があり、数日間冬の嵐があったので、行軍は困難だった。モントリオールからケベック市にイギリス軍が逃亡するのを阻止するために、ソレルに分遣隊を派遣し、そこで短時間イギリス軍の部隊と衝突した。イギリス軍は即座にセントローレンス川に浮かぶ艦船に撤退した。モントゴメリーとその主力部隊がモントリオール市郊外に達したとき、市が降伏するか、さもなくば砲撃するという内容の伝言を送らせた。市の降伏条件に関する協議を行っている間に、カールトンは小さな船団でセントローレンス川を下って逃げ出した。モントリオール市は11月13日に降伏し、モントゴメリー軍は1発の銃弾も放たずに市内に入城した。 11月19日、イギリスの船団が捕まったが、カールトンはかろうじて逮捕を免れ、ケベック市への逃避行を続けた。モントゴメリーが捕虜になったイギリス兵に対して親切な待遇を行ったので、幾人かの士官がそれについて心配を表明した。モントゴメリーはこのことを自分の権限に対する挑戦だとみなし、軍隊に規律が掛けていたこともあって、辞任を表明して脅しを掛けた。ワシントンはその手紙の中で、やはり軍隊の規律に問題があることを表明し、モントゴメリーに指揮を続けるよう説得していた。 11月28日、モントゴメリーと300名の兵士が捕獲した船舶の幾隻かに乗船し、ケベック市への航海を始めた。12月2日、モントゴメリーは、ケベック市から18マイル (29 km) 上流のポワン・ト・トランブルでベネディクト・アーノルドの部隊と合流した。モントゴメリーが到着した時に、アーノルドは自分の部隊の指揮権をモントゴメリーに渡した。アーノルド隊はメインの荒野を抜けてケベック市までの道中で艱難辛苦して辿り着いており、衣類等冬の備えが必要だったので、12月3日に捕獲したイギリスの船舶から取り上げた物資を渡した。翌日、その軍隊はケベック市の方向に移動した。到着したとき、モントゴメリーは市の包囲を命令した。12月7日、モントゴメリーはカールトンに最後通牒を送り、市の降伏を要求した。カールトンはその書状を燃やした。その数日後、モントゴメリーは市内の特に商人に自分達は市民を解放するために来たということを訴える手紙を送った。しかしカールトンはその作戦を見破り即座に伝令を逮捕させた。モントゴメリーはその意思が市民に届くことを望み、弓矢を使って市の壁にその宣言を届けさせた。
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