カナダの防衛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/05 17:22 UTC 版)
「カナダ侵攻作戦」および「サラトガ方面作戦」を参照 カールトンは1775年5月に反乱が始まったという報せを受け取り、その後間もなく反乱軍にタイコンデロガ砦とクラウンポイント砦が奪われ、サンジャン砦が襲撃を受けたと知らされた。それ以前にボストンに配下の2個連隊を派遣しており、ケベックには約800名の正規兵しか残っていなかった。民兵隊を起ち上げようとしたが当初はうまく行かず、フランス系住民もイギリス系住民も進んで加わろうとはしなかった。地域のインディアン部族はイギリス側で戦うことに乗り気であり、ロンドンは彼等を戦わせようとしたが、カールトンはインディアンが非戦闘員を攻撃することを恐れたのでその申し出を飲まなかった。 カールトンは植民地の防衛準備を指示し、1775年の夏はサンジャン砦を固めさせた。9月、大陸軍がその侵攻を開始し、サンジャン砦を包囲した。砦が11月に陥落すると、カールトンはモントリオールからケベック市への逃亡を余儀なくされ、民間人に身を窶して何とか捕獲を免れた。 1775年12月、カールトンはケベックの戦いとそれに続く包囲戦で市の防衛軍を指揮した。大陸軍による包囲は、1776年5月に副司令官に指名されたアラン・マクリーン指揮下の援軍が到着することで破られた。カールトンはトロワ・リビエールの戦いで大陸軍の攻撃を跳ね返すなど、大陸軍に対する反撃を始めた。6月、カールトンはバス勲章(ナイト)を与えられた。翌月、リシュリュー川でイギリス海軍部隊を指揮し、その延長で10月にはシャンプレーン湖のバルカー島沖で、ベネディクト・アーノルド将軍が指揮する戦隊と戦った(バルカー島の戦い)。この戦いではイギリス戦隊が優勢であり、大陸軍の艦船大半を破壊するか捕獲するという大勝利だったが、それまでに時間を取りすぎていたことで、その年にタイコンデロガ砦を再占領するところまで行き着かなかった。この作戦時に弟のトマス・カールトンと甥のクリストファー・カールトンも参謀として従軍していた。
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