戦前の準備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/23 07:17 UTC 版)
「アイザック・ブロック」の記事における「戦前の準備」の解説
1806年、アメリカ合衆国は次第にイギリスに敵対的となり、両国の関係は1812年の開戦まで悪化の道を辿った。この敵意の原因は3つあった。アメリカの主権を侵すことに対する不満、イギリスによる貿易の制限、および防衛力の薄い北アメリカのイギリス領を領土として取ってしまおうというアメリカの野望であった。アメリカの不満には、イギリス海軍によるアメリカ人水夫の強制徴募、枢密院令によるフランスの港の封鎖、およびアメリカの西部辺境でイギリス軍がインディアンを唆して開拓者を襲わせているという思いこみがあった。アメリカのタカ派はイギリスを罰するためにカナダ侵略を要求し、インディアンに代表されるアメリカの利益に対する脅威を減ずることを要求していた。同時にアメリカの新しい領土が混み合い始め、後にマニフェスト・デスティニーという言葉で表されることになる、北アメリカ大陸の全ての土地は神の意志でアメリカ合衆国が支配することになっているという思想・態度が広まりつつあった。アメリカのタカ派はカナダの開拓者が立ち上がって、アメリカ軍を解放者として迎えてくれるものと見ており、トーマス・ジェファーソンは、カナダ征服が「ほんの行軍するだけのこと」であると言ってアメリカの大衆を確信させた。この脅威が見えてくるにつれて、ブロックはカナダの防衛強化に素早く動いた。ケベックの要塞は壁を作り砲兵大隊を作ることで強化した。ブロックは正式の教育はあまり受けていなかったものの、大砲の操作や設置に関する科学的な書籍を読むことにより、強力な防衛拠点を作り上げることに成功した。また湖沼・河川の作戦展開に必要な海兵隊部門を再調整し、五大湖を確保するために必要な海軍力まで作り上げた。このことは米英戦争で極めて重要な要素となった。 1807年、ブロックはカナダ総督のジェイムズ・ヘンリー・クレイグによって、准将に昇進し、1810年にはアッパー・カナダの全軍を指揮することになった。この期間、ブロックはヨーロッパでの従軍を求め続けた。1811年、さらに少将に昇進した。その年の10月に副総督のフランシス・ゴアがイギリスに戻ったので、ブロックが暫定的な副総督となり、アッパー・カナダの統治者となった。このために、ブロックは軍政面も民政面もすべて見ることになった。1812年の早くにヨーロッパ勤務の辞令がきたが、ブロックは合衆国に対してカナダを守るのが自分の義務と考え辞退した。 ブロックは、アッパー・カナダの管理者として戦争に備えて幾つかの改革を行った。植民地議会の反発はあったものの、まず軍法を改定し、志願兵の利用を可能にし、これら新兵の訓練を強化させた。さらに守りの強化と補強を続けた。またショーニー族の指導者テカムセなどのインディアン指導者と渡りを付けアメリカとの戦争が起こった場合にイギリスと同盟するかを確認した。当時の一般的な見方ではカナダは侵略されれば直ぐに落ちてしまうとされていたが、ブロックは植民地の戦力で戦う戦略を模索し続けた。
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