戦前の準急列車
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1926年(大正15年)9月に東海道本線の東京駅 - 名古屋駅、名古屋駅 - 神戸駅間に設定された列車が「準急」を名乗ったのが始まりである。この当時は比較的長距離を、運賃以外の料金が不要で急行列車よりやや劣る速度で走る、現在の快速列車に相当するサービス的列車であった。したがって、「準急」は現在の快速列車の当時の呼称ともいえ、一部の地域では同様の列車が既に「快速列車」・「快速度列車」とも呼ばれていたとされる。 その後は長 - 短距離で同種の列車が設定された。戦前の黄金期といえる1934年(昭和9年)12月の改正当時の特徴的な列車としては、次のようなものがあげられる。 221・224列車 (東海道本線)東京駅 - 沼津駅間運転。箱根・伊豆方面の観光客向けの列車で、小田急線などと競合するためか同区間においては急行列車よりも速く、特急列車並みの速度で走った(特急「踊り子」の歴史も参照)。 442・447列車 (山陽本線、東海道本線、草津線、関西本線、参宮線経由)姫路駅 - 鳥羽駅間運転。関西圏から伊勢神宮参拝へ向かう人のための列車で、1931年(昭和6年)に開業した参宮急行電鉄(参急、現在の近鉄)と競合するため速度も速く(東海道本線内では超特急「燕」並みの速度で運転)、簡易の食堂車も連結されていた(近鉄と競合する国鉄・JR線の優等列車も参照)。 801・802列車 (東北本線、日光線・冬季運休)上野駅 - 日光駅間運転。国際観光地日光への列車。東武鉄道日光線と競合するため高速運転を行い(東北本線内では急行列車より速い速度で運転)、上野駅 - 日光駅間を2時間半で結んだ。食堂車も連結した(国鉄・JR日光線の優等列車も参照)。 101・102列車 (東北本線)上野駅 - 青森駅間運転。北海道連絡の一翼を担う列車で、二等寝台車・食堂車を連結。 翌1935年(昭和10年)12月には、関西本線の湊町(現:JR難波)駅 - 名古屋駅間を3時間1分で結ぶ列車も設定されている。なお急行「かすが」が2006年の廃止直前時点で名古屋駅 - 奈良駅間を約2時間10分で結んでいたが、天王寺駅方面から奈良駅までを走る快速の所要時間を加味すると、70年前の当時とほとんど変わりが無い。 さらに鉄道省では関東大震災や昭和金融恐慌・世界恐慌などの影響を受けて日本が深刻な不況に陥り、それを受けて利用客の減少に悩まされていたことから、イメージアップと呼び込みを兼ねてシーズンになると観光地へ向けて臨時の準急列車をいくつも走らせた。その中には、当時正式には特急列車にしか付けられていなかった列車愛称を地方局独自でつけていたものもあった。代表的なものに下記がある。 漣(さざなみ)・潮(うしお) (前者は房総西線…後の内房線、後者は房総東線…後の外房線経由・夏季運行)両国駅 - 安房鴨川駅間等で運転。東京から房総半島へ向かう海水浴客向けの列車で、繁忙期にはどちらも日4 - 5往復が設定された。 高嶺(たかね) (中央本線、富士山麓電鉄大月線・夏季運行)新宿駅 - 富士吉田駅(現、富士山駅)間運転。富士山等の登山客向けの列車で、富士山麓電鉄(現、富士急行)へ乗り入れて最繁忙期には日に4本程度が設定された。 黒潮号(くろしおごう) (南海本線、阪和電鉄本線…後の阪和線、紀勢西線…後の紀勢本線・下り土曜、上り日曜運行)難波駅・阪和天王寺駅(現、天王寺駅) - 白浜口駅(現、白浜駅)間運転。関西から南紀白浜温泉へ湯浴みをしに行く客のための列車で、大阪 - 和歌山間で競合路線を有していた南海鉄道(現、南海電気鉄道)と阪和電気鉄道(JR阪和線の当時の運営会社)の両私鉄へそれぞれ国鉄の客車が乗り入れ、東和歌山駅(現、和歌山駅)で両社からの車両を併結・分割する形で運行した。 しかしこれらの列車は、1937年(昭和12年)の日中戦争開戦後、戦時体制が強まるにつれて同年12月15日に廃止された。
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