戦前の活動
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1920年、赤坂ユキヱと結婚、のち一男一女をもうける。高砂市荒井町で社宅に入居。この年より毎日新聞兵庫版付録の俳句欄(岩木躑躅選)に投句をはじめ、1922年から大阪の俳誌「山茶花」、岩木躑躅主宰の「いひほ」に投句。1925年、社内劇団の座員となりしばしば舞台に立った。1927年、岩木躑躅を選者に迎えて、相生垣秋津、宮富岳坊とともに「桃源」創刊(6号で休刊)。このころ武者小路実篤に心酔し、新しき村の機関誌に短編小説や自由詩などを寄稿。1929年、「山茶花」に飽き、原石鼎主宰の「塵火屋」、小野蕪子主宰の「鶏頭陣」、「鹿火屋」系統の大久保鵬鳴主宰「たかむら」などにさかんに投句。小野蕪子から骨董趣味の影響を受ける。1935年、工場内で俳句に関心のありそうな仲間に声をかけ、「蓑虫」を創刊、主宰。同好者四十余名を育成し、「鶏頭陣」に優秀な作者を送り込んだが、16号で休刊する。 1937年、「鶏頭陣」の投句仲間や相生垣秋津、工楽長三郎、糟谷武美と文化趣味の会「白泥会」を結成。柳宗悦指導の民芸運動の諸作家棟方志功、河井寛次郎、濱田庄司、寿岳文章、竹中郁、阿部知二らに接する。工楽邸に棟方志功が投宿した折は個人的に訪問して芸術論を交わし、その生命力溢れる作品思想がのち創作の支えとなる。「鶏頭陣」を介し浜田石蓮子を知り、浜田石蓮子を介して山田正平に篆刻の指導を受ける。棟方志功にも落款を制作し、二三個進呈するが、1939年に網膜炎を病んだことにより篆刻製作は中止した。 1938年、俳誌「柿串」に新設された「阿吽抄」欄の選者。1940年、新興川柳誌「龍」(岩崎蝉古主選)に今福田吉の筆名で一年間投句し、ほぼ毎号巻頭を飾るが一年でやめる。俳誌「蠍座」(秋田県)の主選者として迎えられる。『文藝春秋』俳句欄に執筆、句集頻発を批判する。また新風を求めて石田波郷主宰の「鶴」に投句。三ヶ月で巻頭となり、後に同人に推される。そのほか新興俳句総合誌「天香」にも投句した。しかし官憲による思想弾圧の時勢下で小野蕪子の忠告を受け、以後諸俳誌への多様な活動を慎むようになる。 1941年、社内の青年学校の教師となり、1945年8月まで務める。製紙技術および精神主義的教養を目的とする独自の講義、生徒に映画を見ることを奨め、俳句の話もする。思想弾圧の危険を考慮し、一時句作を中断するが、「祖牛」の筆名でひそかに「鶴」に投句を再開。1943年、太平洋戦争の激化により、発起して社内に座禅会を結成し、毎月、宮崎奕保和尚の鉗鎚を受ける。
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戦前の活動
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東京市麹町区内幸町に生まれる。麻布中学校を経て、1918年早稲田大学高等予科に入学。当時早大講師をしていた猪俣津南雄の影響を受け、生涯を労働運動に捧げることとなる。1921年早大理工学部応用化学科に進学。同年学内に社会主義学生団体「文化会」を立ち上げ事務局長となり、学費値下げ要求や無能教授追放運動などを行う。翌1922年には学生運動の全国的連絡組織「学生連合会」事務局長を務める(委員長は東京帝国大学の黒田寿男)。 1922年日本共産党(第1次)に入党。第1次共産党事件(1923年)で検挙され、翌1924年には早大を除籍となる。同年共産党が解散された後は、師の猪俣津南雄に従い労農派陣営に拠って労働運動に従事する。1934年日本労働組合全国評議会(全評)結成に参加(委員長は加藤勘十)、組織部長兼機関紙部長を務めるが、1937年人民戦線事件に連座する。
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戦前の活動
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海辺の村に生まれ育ち、桜井村立桜井小学校(現・今治市立桜井小学校)、愛媛県立今治中学校(現・愛媛県立今治西高等学校)を卒業後、1921年に20歳で東京高等師範学校文科一部別組(地理・歴史専攻)に入学、3年次より田中啓爾の薫陶を受け、1925年に同校を卒業する。卒業後は1年間志願兵として歩兵第57連隊に入営、除隊後は3年間東京府立第五中学校(現・東京都立小石川中等教育学校)で教鞭を執る。1929年、創立されたばかりの東京文理科大学地学科地理学専攻へ入学、再び田中啓爾から指導を受ける。その傍ら東京外国語学校専修科仏語部でも2年間学んでいる。 1931年、「九十九里浜海岸平野に於ける集落の移動」を『地理学評論』で発表、以後九十九里浜から外房、内房へと研究フィールドを移動し、千葉県全体の地域区分を行った。1932年に卒業論文「九十九里浜に於ける漁村及水産業の地理学的研究」を提出、そのまま東京文理科大学副手に就任、東京地学協会発行の『地学雑誌』編集事務も務めた。翌1933年に同学助手となる。研究面では伊豆半島や紀伊半島、三陸海岸南部の漁業・漁村調査を行った。また1939年には『地学雑誌』編集経験を活かして師の田中啓爾との共著で『地理論文の書き方』を執筆した。 1938年、満州事変が勃発すると地理学にもその影響が及び始め、青野も朝鮮半島・中国大陸・南氷洋・南洋群島・北アメリカ太平洋岸の水産業を研究、オーストラリアの水産業と米作を研究すべしと説いた。その一方で日本の漁村研究も継続し、特にカツオ釣り漁村に焦点を当てた。1940年には東京文理科大学と旧制浦和高等学校の講師に就任、1941年には前2校に加え立正大学でも講師を務めた。1943年には拓殖大学教授となる。
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