戦前の活動とは? わかりやすく解説

戦前の活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/06 01:22 UTC 版)

永田耕衣」の記事における「戦前の活動」の解説

1920年赤坂ユキヱと結婚、のち一男一女をもうける。高砂市荒井町社宅入居この年より毎日新聞兵庫付録俳句岩木躑躅選)に投句をはじめ、1922年から大阪俳誌「山茶花」岩木躑躅主宰の「いひほ」に投句1925年社内劇団座員となりしばしば舞台立った1927年岩木躑躅選者迎えて相生秋津、宮富岳とともに桃源創刊6号休刊)。このころ武者小路実篤心酔し新しき村機関誌短編小説自由詩などを寄稿1929年「山茶花」飽き原石鼎主宰の「塵火屋」、小野蕪子主宰の「鶏頭陣」、「鹿火屋系統大久保主宰たかむら」などにさかんに投句小野蕪子から骨董趣味影響を受ける。1935年工場内で俳句関心のありそうな仲間に声をかけ、「蓑虫」を創刊主宰同好四十余名育成し、「鶏頭陣」に優秀な作者送り込んだが、16号休刊する。 1937年、「鶏頭陣」の投句仲間相生秋津、工楽長三郎、糟谷武美と文化趣味の会「白泥会」を結成柳宗悦指導民芸運動諸作棟方志功河井寛次郎濱田庄司寿岳文章竹中郁阿部知二らに接する。工楽邸に棟方志功投宿した折は個人的に訪問して芸術論交わし、その生命力溢れ作品思想がのち創作支えとなる。「鶏頭陣」を介し浜田石蓮子を知り浜田石蓮を介して山田正平篆刻指導を受ける。棟方志功にも落款制作し二三進呈するが、1939年網膜炎病んだことにより篆刻製作は中止した1938年俳誌串」に新設された「阿吽抄」選者1940年新興川柳誌「龍」(岩崎古主選)に今福田吉筆名一年間投句し、ほぼ毎号巻頭を飾るが一年でやめる。俳誌蠍座」(秋田県)の主選者として迎えられる。『文藝春秋俳句執筆句集頻発批判する。また新風求めて石田波郷主宰の「」に投句三ヶ月巻頭となり、後に同人推される。そのほか新興俳句総合誌天香」にも投句した。しかし官憲による思想弾圧時勢下で小野蕪子忠告を受け、以後俳誌への多様な活動を慎むようになる1941年社内青年学校教師となり、1945年8月まで務める。製紙技術および精神主義教養目的とする独自の講義生徒映画を見ることを奨め俳句の話もする。思想弾圧の危険を考慮し一時句作中断するが、「祖牛」の筆名ひそかに」に投句再開1943年太平洋戦争激化により、発起して社内座禅会を結成し毎月宮崎奕保和尚鉗鎚を受ける。

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戦前の活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 14:37 UTC 版)

高野実」の記事における「戦前の活動」の解説

東京市麹町区内幸町生まれる。麻布中学校経て1918年早稲田大学高等予科入学当時早大講師をしていた猪俣津南雄影響を受け、生涯労働運動捧げることとなる。1921年早大理工学部応用化学科進学同年学内社会主義学生団体文化会」を立ち上げ事務局長となり、学費値下げ要求無能教授追放運動などを行う。翌1922年には学生運動全国的連絡組織学生連合会事務局長務める(委員長東京帝国大学黒田寿男)。 1922年日本共産党第1次)に入党第1次共産党事件1923年)で検挙され、翌1924年には早大除籍となる。同年共産党解散された後は、師の猪俣津南雄従い労農派陣営拠って労働運動従事する1934年日本労働組合全国評議会全評結成参加委員長加藤勘十)、組織部長兼機関紙部長務めるが、1937年人民戦線事件連座する

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戦前の活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 02:12 UTC 版)

青野寿郎」の記事における「戦前の活動」の解説

海辺の村生まれ育ち桜井村立桜井小学校現・今市立桜井小学校)、愛媛県立今治中学校(現・愛媛県立今治西高等学校)を卒業後、1921年20歳東京高等師範学校文科一部別組(地理・歴史専攻)に入学3年次より田中啓爾薫陶を受け、1925年同校卒業する卒業後は1年間志願兵として歩兵第57連隊入営除隊後3年東京府立第五中学校現・東京都小石川中等教育学校)で教鞭を執る1929年創立されたばかり東京文理科大学地学科地理学専攻入学、再び田中啓爾から指導を受ける。その傍ら東京外国語学校専修科仏語部でも2年学んでいる。 1931年、「九十九里浜海岸平野に於ける集落移動」を『地理学評論』で発表以後九十九里浜から外房内房へと研究フィールド移動し千葉県全体地域区分行った1932年卒業論文九十九里浜に於ける漁村水産業地理学研究」を提出そのまま東京文理科大学副手就任東京地学協会発行の『地学雑誌編集事務務めた。翌1933年同学助手となる。研究面では伊豆半島紀伊半島三陸海岸南部漁業漁村調査行った。また1939年には『地学雑誌編集経験活かして師の田中啓爾との共著で『地理論文書き方』を執筆した1938年満州事変勃発する地理学にもその影響が及び始め青野朝鮮半島中国大陸南氷洋南洋群島北アメリカ太平洋岸の水産業研究オーストラリア水産業米作研究すべし説いた。その一方で日本漁村研究継続し、特にカツオ釣り漁村焦点当てた1940年には東京文理科大学旧制浦和高等学校講師就任1941年には前2校に加え立正大学でも講師務めた1943年には拓殖大学教授となる。

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