生い立ちと戦前の活動とは? わかりやすく解説

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生い立ちと戦前の活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 16:26 UTC 版)

延徳春」の記事における「生い立ちと戦前の活動」の解説

1916年京畿道高陽郡纛島面(現在のソウル特別市城東区トゥクソム付近生まれ生家農家であった1930年生家近所君子里に、京城ゴルフ倶楽部君子里コースができ、徳春とゴルフ接点ができる。徳春の親族は、君子里でマスターキャディを務めており、1932年16歳になった徳春はその勧めキャディアシスタント始める。京城ゴルフ倶楽部では日本人プロゴルフ指導当たっており、会員以外にキャディにもゴルフ教えていた。こうした環境の中で徳春はゴルフ上達した。やがて京城ゴルフ倶楽部では徳春を本格的に選手として育成しようとする機運高まった1934年京城ゴルフ倶楽部は徳春を日本へのゴルフ留学送り出した。徳春は藤沢カントリー倶楽部中村寅吉ゴルフ指導を受ける。1935年関東プロゴルフ協会のプロゴルファーテストに合格朝鮮初のプロゴルファーとなった。 徳春は京城ゴルフ倶楽部にクラブプロとして所属した。翌1936年には兄夫婦事故死したためその子2人引き取った。またこの年結婚をしており、実子5人にも恵まれた1941年程ヶ谷カントリー倶楽部開かれた日本オープンゴルフ選手権競技では、浅見緑蔵、陳清水中村寅吉、孫士鈞(のちの小野光一)らの強豪破り優勝した優勝カップ玄界灘渡り京城駅前に歓迎人々集まった。徳春を支援し世話し続けた富野繁一(朝鮮ゴルフ連盟常務理事)も感激言葉を残し「ぜひ2連覇レコードを」とも記した。しかしこの大会が、戦前最後の日オープンとなった1942年には日本プロ選手2位成績おさめている。 1943年ゴルフ場閉鎖され、徳春は職を失った

※この「生い立ちと戦前の活動」の解説は、「延徳春」の解説の一部です。
「生い立ちと戦前の活動」を含む「延徳春」の記事については、「延徳春」の概要を参照ください。

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