生い立ちと戦前の活動
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1916年、京畿道高陽郡纛島面(現在のソウル特別市城東区トゥクソム付近)生まれ。生家は農家であった。1930年、生家の近所の君子里に、京城ゴルフ倶楽部の君子里コースができ、徳春とゴルフの接点ができる。徳春の親族は、君子里でマスターキャディを務めており、1932年、16歳になった徳春はその勧めでキャディのアシスタントを始める。京城ゴルフ倶楽部では日本人のプロがゴルフ指導に当たっており、会員以外にキャディにもゴルフを教えていた。こうした環境の中で徳春はゴルフが上達した。やがて京城ゴルフ倶楽部では徳春を本格的に選手として育成しようとする機運が高まった。1934年、京城ゴルフ倶楽部は徳春を日本へのゴルフ留学に送り出した。徳春は藤沢カントリー倶楽部で中村寅吉にゴルフの指導を受ける。1935年、関東プロゴルフ協会のプロゴルファーテストに合格。朝鮮初のプロゴルファーとなった。 徳春は京城ゴルフ倶楽部にクラブプロとして所属した。翌1936年には兄夫婦が事故死したためその子2人を引き取った。またこの年に結婚をしており、実子5人にも恵まれた。 1941年、程ヶ谷カントリー倶楽部で開かれた日本オープンゴルフ選手権競技では、浅見緑蔵、陳清水、中村寅吉、孫士鈞(のちの小野光一)らの強豪を破り優勝した。優勝カップは玄界灘を渡り、京城駅前には歓迎の人々が集まった。徳春を支援し世話し続けた富野繁一(朝鮮ゴルフ連盟常務理事)も感激の言葉を残し「ぜひ2連覇のレコードを」とも記した。しかしこの大会が、戦前最後の日本オープンとなった。1942年には日本プロ選手権で2位の成績をおさめている。 1943年にゴルフ場は閉鎖され、徳春は職を失った。
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