生い立ちと政治上の事跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 14:57 UTC 版)
吉州廬陵県(現在の江西省吉安市吉安県)の人とされるが、出生地は父の欧陽観の任地の綿州(現在の四川省綿陽市)である。数え年四歳で父を失い、以降は叔父の欧陽曄が住んでいた随州で育った。正規の教育によらず自学自習で、1030年(天聖8年)進士に及第、包拯を継いで、開封府尹の任に就く。高官への途が開けたが、この環境で培われた独立不羈の思想は、彼の特質のひとつであり続けた。また、少年時代に知人の家で韓愈の文集に接し強く影響を受けている。以後、館閣校勘等を歴任するが、1036年(景祐3年)、改革派の范仲淹を越権してまでも弁護したため、夷陵県令に左遷された。 約10年の地方勤務後、中央に返り咲き諌官に任ぜられ、范仲淹らと慶暦の改革を進めるも、仁宗の不興を買い、1045年(慶暦5年)には誹謗されて滁州知州に再び左遷された。 数年を経て、再び中央に返り咲き、翰林学士等要職を歴任。1057年(嘉祐2年)権知礼部貢挙に上り、科挙試験を監督、蘇軾を見いだす。その後、枢密副使・参知政事(副宰相)に至り、蘇洵や王安石を登用した。王安石の新法を早くから支持していたが、実際に新法が実施されてみると、逆に青苗法に対してきびしい論考を張るなど、最も強力な反対派の一人になり、そのまま政界を引退した。引退翌年の1072年(熙寧5年)、隠棲先である潁州にて没した。子は欧陽発・欧陽奕・欧陽棐・欧陽辯がいる。
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