生い立ちと教員生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 14:46 UTC 版)
下出民義は文久元年12月8日(新暦:1862年1月7日)、和泉国南郡岸和田城下(現・大阪府岸和田市)に生まれた。幼名は「梅吉」で、明治に入ってから民義と称す。父の喜多蔵(明治に入り民翁を名乗る)は岸和田で宇治茶と道具類を扱う商人。兄の松蔵と4人の姉がいた。1874年(明治7年)、堺にあった河泉学校(後の堺師範学校)に入学し、当時校長であった土屋弘(土屋鳳洲)の下で学ぶ。翌年3月、小学校の教員(四等助教)となった。 郷里の小学校で3年ほど勤めた後辞職し、大阪にて師範学校の試験を受けるが落第。教員への復帰を願い出て加賀田(現・河内長野市)の学校へ赴任した。次いで上京し、陸軍士官学校を受験するがこれも落第。郷里に帰った後加賀田の学校に復帰し、2年ほどで岸和田の学校に転ずる。この頃より政治家を目指して法律の勉強を始め、ほどなくして再び大阪に出て、小学校に勤めながら関西法律学校(関西大学の前身)に通うようになった。同校には2年ほど通い、その間に安治川小学校の校長にまで昇進していた。
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