生い立ちと平氏一族の争いとは? わかりやすく解説

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生い立ちと平氏一族の争い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 06:07 UTC 版)

平将門」の記事における「生い立ちと平氏一族の争い」の解説

父の平良将下総国佐倉(現千葉県佐倉市)が領地伝えられ、同市には将門町という地名残っているが、根拠となる史料はない。また、母の出身地である相馬郡育ったことから「相馬小次郎」と称したとされているが、これは相馬郡勢力があったということではなく実際勢力範囲同国豊田猿島両郡であった考えられている。将門地方より15 - 16歳のころ平安京出て藤原北家氏長者であった藤原忠平主君とする(主従関係を結ぶ)。将門鎮守府将軍である父を持ち、自らも桓武天皇の五世であったが、藤原氏政権下では滝口衛士でしかなく、人柄を忠平に認められいたもの官位低かった将門12年ほど在京して当時軍事警察管掌する検非違使の佐(すけ)や尉(じょう)を望んだ入れられなかった(日本外史神皇正統記は「それを恨み思って東下して反逆犯した」とするが、現実的でなく、謀反は「制度に対して行動」としている『山陽外史』の見方がある)。この後将門東下する。この東下の際、叔父平国香平貞盛の父)らが上野国花園村(現群馬県高崎市)の染谷川将門襲撃したが、叔父で国香の弟にあたる平良文将門援護し、これを打ち破っている。ただし、この戦は後の蚕飼川の戦い子飼渡の合戦とも)がモデルで、妙見神を讃えるために創作されたもので実在しなかったという説もある。 以後平将門の乱」へつながる騒擾そうじょう)がおこるのだが、それらの原因についていくつかの説があり、いまだ確定できていない長子相続制度の確立していない当時良将遺領伯父の国香(國香)や良兼に独断分割されていたため争い始まった、という説。 常陸国茨城県)前大掾源護の娘、或いは良兼の娘を巡り争い始まったとする説(『将門記』などによる)。 源護平真樹領地争いへの介入によって争い始まったとする説。 「源護源護縁者将門争いではないかとも言われている(将門当初伯父らと争っているため、「坂東平氏一族争い」と見られがちだが、国香・良兼・良正は源護の娘を娶っており、将門の父の良将とは違うことから)。 将門の父・平良将鎮守府将軍時代築いた陸奥国基盤や、将門拠点とした下総国猿島郡存在した陸奥国に至るまでの常総地域の道路・内海などの交通網巡った説。 承平5年935年2月将門源護の子・扶らに常陸国真壁郡野本筑西市)にて襲撃されるが、これらを撃退し扶らは討ち死にしたそのまま将門大串取手下妻)から護の本拠である真壁郡進軍して護の本拠焼き討ちし、その際伯父の国香を焼死させた。同年10月源護姻戚関係にある一族平良正軍勢集め鬼怒川沿いの新治郷川曲(八千代町)に陣を構えて将門対峙(たいじ)するが、この軍も将門撃破され、良正は良兼に救い求め静観していた良兼も国香亡き後一族の長として放置できず国香の子平貞盛誘って軍勢集め承平6年936年6月26日上総国発ち将門攻めるが、将門奇襲受けて敗走下野国栃木県)の国衙保護求めた将門下野国国府包囲するが、一部包囲解いてあえて良兼を逃亡させ、その後国衙交渉して自らの正当性認めさせて帰国した同年源護によって出された告状によって朝廷から将門平真樹対す召喚命令出て将門らは平安京赴いて検非違使庁訊問を受けるが、承平7年937年4月7日朱雀天皇元服大赦によって全ての罪を赦される。帰国後も、将門は良兼を初め一族大半対立し8月6日には良兼は将門の父良将高望王など父祖肖像掲げて将門の常羽御厩攻めた。この戦いで将門敗走、良兼は将門妻子(良兼の娘と孫とされる)を連れ帰る。だが弟たち(『将門記』には「舎弟語らいて」とあり公雅や公連とされている)の手助け9月10日に再び出奔し将門元に戻ってしまった。妻子戻ったことに力を得た将門朝廷に対して自らの正当性訴えるという行動に出る。そこで朝廷同年11月5日1つ太政官符出した従来、この官符平良兼平貞盛源護に対して出され将門追討官符であると解釈されてきたが、前後事実関係とのつながりとの食い違い生じることから、これを公的に馬寮属する常羽御厩を良兼・貞盛らが攻撃してしまったことによって良兼らが朝廷怒りを買い、彼らへの追討官符将門受けた解釈する説が有力となっている。いずれにしてもこれを機に将門は良兼らの兵を筑波山駆逐し、それから3年の間に良兼は病死し将門威勢名声関東一円鳴り響いた天慶2年939年2月武蔵国新たに赴任した権守興世王出自不明)と介源経基清和源氏の祖)が、足立郡郡司武蔵武芝との紛争陥った将門両者調停仲介乗り出し興世王武蔵武芝会見させて和解させたが、武の兵がにわかに経基の陣営包囲経緯不明)し、驚いた経基は京へ逃げ出してしまう。京に到着した経基は将門興世王、武謀反朝廷訴えた将門主人太政大臣藤原忠平が事の実否調べることにし、御教書下して使者東国送った驚いた将門上書認め同年5月2日付けで、常陸下総下野武蔵上野5カ国の国府の「謀反事実無根」との証明書をそえて送った。これにより朝廷将門への疑い解き逆に経基は誣告の罪で罰せられた。将門関東での声望知り朝廷将門叙位任官して役立たせようと議している。 この時期には将門敵対者戦いあくまでも私戦豪族間の個人的ないざこざ)とみなされ国家対す反乱であるという認識朝廷側にはなかったと考えられている。

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