生い立ちと家族、初期の経歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/16 03:07 UTC 版)
「ジェイムズ・オーティス」の記事における「生い立ちと家族、初期の経歴」の解説
ジェイムズ・オーティスはマサチューセッツのバーンスタブルで生まれ、父ジェイムズとその妻メアリーがもうけた13人兄弟姉妹の長子として成長した。 父ジェイムズはマサチューセッツの有力者の一人として、司法長官、民訴裁判所判事、遺言検認判事、代表議会議長、民兵軍大佐などを歴任した。兄弟姉妹には、成人前に没したものもいれば、独立革命前後に公の活動を行ったものもいる。中でも、長妹マーシー・オーティス・ウォーレンは詩や戯曲などの著作活動を通じて独立革命を擁護し、末弟サミュエル・アレン・オーティスは初代合衆国上院秘書官(在任1789年 - 1814年)を務めた。 ジェイムズ・オーティスは1739年から1743年にかけてハーバード大学に在籍し、卒業後しばらく文学を独習した後、1745年から弁護士ジェレマイア・グリッドリーに学び、1747年にプリマスで弁護士として独立、1750年からはボストンに活動の中心を移した。 1755年春、商家の娘ルース・カニンガム(1728年? - 1789年11月15日)と結婚、社会的な地歩を固めた。志操堅固な王党派だったルースは夫と政治的理念を共有することはなかったが、生涯を連れ添った。2人の間には3人の子供が生まれている。長男ジェイムズは独立戦争に志願兵として従軍し、18歳を前に命を落とした。長女エリザベスは、後年オーティスが精神を患った後にイギリスの士官と結婚し、イギリス本国へ去った。次女メアリーは大陸軍将軍ベンジャミン・リンカーンの子と結婚した。 1756年頃から治安判事、司法長官代行、海事法務官代行などの任命を受ける一方、1760年にはラテン語に関する著作『ラテン語詩形論の基礎』を出版している。さらにギリシア語についても同様の草稿を書いたが、しかしギリシア文字の活字の都合がつかず、未発表となったとされる。この草稿は失われてしまっている。総じて、この時期のオーティスは、文学を愛好する優秀な若手法曹以上の存在ではなく、政治的な物事への関心は薄かった。
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