生い立ちと学究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 16:50 UTC 版)
長野県下伊那郡飯田町(現飯田市知久町)に樋口藤治郎、以志(樋口龍峡の姉)の長男として生まれる。樋口家は清和源氏につながる家系で、数百年前に木曽から移った。祖父興平は北原家から養子に入り、文芸を好む考古学研究家で、郊戸神社、愛宕神社の宮司を務めた。父は伊藤家から養子に入り、信濃商業銀行、百十七銀行の支店長を務めた。母方の親戚に勤王家松尾多勢子がいる。いとこの妻は小林一三の姪。のちに歌集『貞心抄』を出した母の薫陶を得て育つ。飯田尋常小学校に通い、当時『小学新聞』(北隆館)に投稿文が掲載された。長野県立飯田中学入学、この頃から詩作を始め、友人と読書会を結成し会長となり、廻覧誌『少年文芸』を編集、風翔、萍翠迂人の号を用いた。1904年に上京して母方の叔父の樋口龍峡に身を寄せ、東洋大学附属京北中学校2年に転入、校友会雑誌に風狭、風狭韻子の号で短文や詩を発表する。1906年に病気のために中退。 翌年北海道に旅行し、旭川新聞に「北海印象記」を連載。1908年に島村抱月が目当てで早稲田大学高等予科に入学し、飯田中学の校友会雑誌にツルゲーネフ「戦はゞや」の翻訳を発表。また、英文学と仏文学の恩師で、同郷でもある吉江喬松に私淑する。在学中の1912年から西條八十、森口多里、堀口大學、石井栢亭、画人の長谷川潔、永瀬義郎らと同人誌『聖杯』を創刊し、戯曲「美の遍路」や和歌の連作、詩や随想などを発表、ペンネームの日夏耿之介、号の夏黄眠、雛津之介を用い始める。翌年『假面』に改題し、1915年まで発行する。1913年『國學院雑誌』に「國語と語感と表現と」を発表し、以後も『早稲田文学』『水甕』『詩歌』などに作品発表。1914年に吉江喬松や『仮面』の一部メンバー西條八十、松田良四郎らに、芥川龍之介、山宮允を加えて、愛蘭土(アイルランド)文学会を結成。芥川と親しくなる。1916年、鎌倉坂ノ下に転居、同じ頃に鎌倉で療養していた萩原朔太郎と交友を持ち、翌年刊行された朔太郎の『月に吠える』には理解を示す書評を書いた。1917年、大森山王に移転。
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