全学応援団設立と戦前の活動
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「東京農業大学全学応援団」の記事における「全学応援団設立と戦前の活動」の解説
明治30年代の東京高等農学校時代、校内運動会の級対抗競技の際には各クラス有志が応援し、対外試合があれば全学生が大挙して駆けつけて応援はしたものの、まだ一定の形をなした応援団は存在しなかった。しかし、対外試合で応援する場合、統制をとる必要に迫られる。そこで大正2年、応援団長に推されたのが当時学部1年生の三浦肆玖楼(後の第5代東京農業大学学長)だった。1923年(大正12年)、当時在学中の高等科3年市川正輝の作詞で「青山ほとり」が誕生する。農業を讃え都人士にして農業の尊さを訓えた歌詞と、故郷函館市郊外の湯の川温泉付近の素朴な民謡曲を取り入れたもので、当時の学生気質に一致し、学生に広く愛唱され後に応援歌として認識される。1925年(大正14年)5月18日、大学令により東京農業大学に昇格すると学生団体である斯友会より新学歌の作成を要望する声が起こった。作詞を尾上紫舟に、作曲を山田耕筰に依頼し、9月25日学歌「常磐の松風」を制定し発表した。こうして応援が発展して、昭和5年頃には予科と専門部に独立した有志の応援団が存在したが、毎年の関東学生相撲大会が終わればその存在を認められないほど淋しくなり、一時的の応援団としか思えない状態にあった。 昭和初期、当時は学生間の思想問題が多く、一志会を中心とする皇室中心勢力と読書会を中心とする革新勢力の暗斗はかなり激しいものがあった。同じ頃、野球部が東都五大学リーグに加わり、他校の応援団に対する熱狂と真剣さが農大生を刺激した。しかし予科応援団も専門部応援団も、便宜的に大学を代表したものであって、形式的にも何等の統制もなくその対立によってたびたびトラブルを起こしており、応援団統一の必要が叫ばれていた。こうした中で1931年(昭和6年)、左右の対立を解消し農大を一本化するために、その中心母体として学部学生も含めた全学生を網羅する「東京農業大學全學學生應援團」の設立が6月19日の斯友会総会において満場一致で可決された。 応援団の発足に伴い、農大応援団を代表する応援団旗を日本一立派なものにし、農大学生の心の拠り所にすることにした。皇室の公式儀式に儀仗申し上げた近衛師団、近衛騎兵の鎗を農大応援団の旗竿にと、陸軍省に払い下げを申請した。陸軍省でも経緯のないことであり、全く異例のことであって払い下げには暇取ったが、近衛騎兵の鎗柄が下付された。11月11日、大学構内の横井記念講堂において団旗制定式が挙行された。 1932年(昭和7年)5月、例年の関東学生相撲大会において、当時の応援歌「青山ほとり」に大根を持って応援した。『白紋付き姿の団長人参1本を片手にやおら立ち上がり、人参一振り、三百の農大軍大根を片手に「お嫁に行くなら」の蛮声をはり上げたのは場内を圧した』という。その後は各運動部の試合において、その機能を発揮し活躍した。1937年(昭和12年)の日中戦争勃発からは、学内に出征者がある場合は学徒出陣壮行会も行なった。太平洋戦争に突入し、戦局が激化するに従って大学自体が部隊編制に切り替わり東京農大谷川部隊(配属将校)となった。全学学生応援団の活動も中断された。そして1945年(昭和20年)5月、アメリカ軍による東京大空襲(山の手大空襲)を受けて初代団旗を焼失してしまうが、旗竿だけは難を逃れ今もなお現存している。
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