戦前の活動と投獄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 14:54 UTC 版)
福岡県門司市(現・北九州市)生まれ。旧姓、川本。1906年、母方の祖父の養子となって山口県萩町(現・萩市)へ移り、志賀姓となる。 旧制萩中学校(現・山口県立萩高等学校)から一高を経て東京帝国大学文学部に入学する。帝大在学中に学生運動に参加し、在学中の1923年(大正12年)には、前年に非合法政党として結成された日本共産党へ入党。1927年(昭和2)1月には、モスクワに赴任した福本和夫から党中央常任委員・政治部長の要職を引き継いだが、1928年(昭和3年)の三・一五事件において検挙され、1934年(昭和9年)に治安維持法により懲役10年の有罪判決を受けた。獄中生活は1945年(昭和20年)に日本が第二次世界大戦で敗北するまで続いたが、志賀は多くの党員と異なり、獄中でも転向拒否を貫いた。 1925年6月号『マルクス主義』に「『科学的日本主義』の理論」を発表し、赤松克麿「科学的日本主義へ」(1924年11月『新人』)を批判した。
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