植民地の防衛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/06 22:48 UTC 版)
「ケベックの戦い (1775年)」の記事における「植民地の防衛」の解説
カールトン将軍は、アーノルドがセントジョンズ砦を襲ったことを知った直後から植民地の防衛に動き始めていた。その持てる部隊の大半をセントジョンズ砦に集中させたが、イギリス軍正規兵の少数をモントリオールとケベックに残していた。カールトンは大陸軍による侵攻経路を追跡しており、時としてモントゴメリーとアーノルドの間の通信を傍受していた。ケベックの副知事ヘクター・クラマエがケベック市の防衛責任者となり、カールトンはモントリオールに行って、9月には町の防衛にあたる数百名の民兵隊を組織した。カールトンは民兵の半分しか信頼できないと見積もり、「依存するには足りない」と悲観的に考えていた。クラマエもボストンの軍上層部に援軍の要請を何度もしていたが、その度に何も返ってはこなかった。幾隻かの艦船が風に吹かれてコースを外れ、ニューヨークに行ってしまうこともあり、ボストンにいる艦隊の指揮官サミュエル・グレイブスは、冬が近付いてセントローレンス川の水路が閉ざされてしまうために、ボストンからケベックに部隊を運ぶために艦船を用いることを拒否していた。 アーノルド隊の行軍が成功し、ケベック市に近付いているという確定的な情報が11月3日に市に届き、クラマエは守備隊に守りを固めさせ、セントローレンス川南岸から全ての船舶を移動させた。アーノルド隊接近の情報によってさらに民兵の徴兵を加速させ、総勢は1,200名以上になった。11月3日にプリンスエドワード島やニューファンドランド島から志願民兵を積んだ2隻の船が、また翌日には1隻の船が到着し、約120名の民兵が防衛に加わった。その日にはHMSリザードが指揮する小さな船団も到着し、乗船していた海兵隊の多くが防衛に加えられた。 11月10日、セントジョンズ砦の解放を試みに行っていたアレン・マクリーン中佐が第84歩兵連隊の200名の兵士と共にケベック市に帰ってきた。彼等はアーノルド隊からモントゴメリー隊への通信をトロワリヴィエール近くで傍受しており、ケベック市の防衛のために急いで帰ってきていた。この経験を積んだ部隊の到着で町にいる民兵隊の士気が上がり、マクリーンは即座に防衛隊の指揮を執った。
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