フィップス軍の到着
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/17 05:00 UTC 版)
「ケベックの戦い (1690年)」の記事における「フィップス軍の到着」の解説
ニューイングランド植民地とニューヨークから、モントリオールへの軍が陸路派遣された。実質何も成し遂げなかったものの、マサチューセッツ植民地はケベックに、軍を2つに分けて送りだしていた。32艘の船団から成る軍(うち4艘だけが大型船)、そしてマサチューセッツの2,300人の民兵、もう一つはフイップスの全面指揮下にある、ポートロワイヤルで勝利を飾った軍である。この軍の出港は夏の終わりにまでずれ込んだ、というのも、イングランド本国からの支援物資の到着を待ち続けていたからである、しかしそれは空しかった。結果、フィップスが、マサチューセッツのハルから船を出したのは、8月の19日または20日で、弾丸も不足していた。悪天候、向かい風、そして、セントローレンス川を熟知した案内役の不在が前進を阻み、10月の16日になるまでケベックに錨を下ろすことができなかった。 フロンテナックは賢く経験豊かな士官であり、10月14日にモントリオールからケベックに着いていた。召集された民兵が到着し、3,000人近い兵がケベックの守りについた。ニューイングランド軍は「臆病で惰弱なフランス人が、頑健なニューイングランドの兵に敵わないだろうと自信ありげだった」。しかしまさに逆もまた真なりであった。フロンテナックには、植民地の正規軍が3部隊いて、フィップスのアマチュアの民兵よりも確かに優れていたため、勝利には自信があった。しかし戦況が進むにつれ、ヌーベルフランス側で実際に奮闘していたのは民兵であった。さらにケベックが、恐らくニューイングランドの将校がそれまで見た中では、自然のままで最も手ごわい地だったのである。手ごわいのは、急な断崖とディアモン岬だけではなかった。東海岸が浅いため船が近づけず、着岸には技術が必要だった。 10月16日、フィップスはトマス・サベージ少佐を使節として派遣し、フロンテナックに降伏するよう伝えに行かせた。この出会いはまさに心理戦だった。フロンテナックは、フィップスの使節が自軍の数の上での劣勢を隠すために、ケベック市民の野次や笑い声に向きになるように仕向け、使節がサン=ルイ城に着くと、フロンテナック自身と部下の多くは正装して、降伏を要求する使節の話に耳を傾けた。すると使節は1時間のうちなら要求に応じると言い、時計を出した。自尊心が強く怒りっぽいフロンテナックはひどく怒り、イングランドの艦隊を見もしないうちから、この使節を縛り首にすると言いだした。しかし、ケベック司教のフランソワ・ド・ラヴァルのおかげで落ち着きを取り戻し、こうやり返した。 貴国の総督への返答は、私の大砲の口と機関銃からの弾丸よりほかにない。 —Non, je n'ai point de réponse à faire à votre général que par la bouche de mes canons et de mes fusils.、
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