フィップス家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/02 17:31 UTC 版)
現在のノーマンビー侯爵家であるフィップス家が貴族に列したのは、コンスタンティン・フィップス(1722–1775)が1767年9月3日にアイルランド貴族「カウンティ・オブ・ウェックスフォードのニューロスのマルグレイヴ男爵」に叙せられたのに始まる。なおこのコンスタンティン・フィップスの母方の祖母キャサリン・セドリー(英語版)は、再婚で初代バッキンガム=ノーマンビー公ジョン・シェフィールドと結婚し、その間に2代バッキンガム=ノーマンビー公エドマンドを儲けており、この縁戚関係からフィップス家がマルグレイヴ伯爵やノーマンビー侯爵などシェフィールド家由来の爵位を叙されたものと見られる。 初代マルグレイヴ男爵の長男コンスタンティン・ジョン・フィップス(英語版)(1744–1792)は、王立海軍軍人として七年戦争に従軍した後、政界に転じてホイッグ党、ついでトーリー党の庶民院議員として活躍した。1775年に第2代ニューロスのマルグレイヴ男爵位を襲爵し、さらに1790年7月7日にグレートブリテン貴族「カウンティ・オブ・ヨークのマルグレイヴのマルグレイヴ男爵」に叙され、貴族院議員に列した。しかし彼には男子がなかったため、彼の死とともに同爵位は消滅している。 その後、初代男爵の次男ヘンリー・フィップス(1755–1831)が第3代ニューロスのマルグレイヴ男爵位を継承した。彼は陸軍軍人としてアメリカ独立戦争に従軍した後、トーリー党の庶民院議員として活躍し、1794年8月13日に改めてグレートブリテン貴族爵位「カウンティ・オブ・ヨークのマルグレイヴのマルグレイヴ男爵」に叙せられ、貴族院議員に列した。彼はその後トーリー党政権下で外務大臣(在職1805-1806)や海軍大臣(1807-1810)などの閣僚職を歴任し、1812年9月7日に「カウンティ・オブ・ヨークのマルグレイヴ伯爵」と「カウンティ・オブ・ヨークのノーマンビーのノーマンビー子爵」に叙せられた。 初代マルグレイヴ伯の死後、その長男コンスタンティン・ヘンリー・フィップス(1797–1863)が第2代マルグレイヴ伯爵位を継承した。彼はトーリー党、後ホイッグ党の政治家として活躍し、ジャマイカ総督(在職1832-1834)、王璽尚書(在職1834)、アイルランド総督(在職1835-1839)、陸軍・植民地大臣(在職1839年)、内務大臣(在職1839-1841)などを歴任した。そして1838年6月25日には「カウンティ・オブ・ヨークのノーマンビーのノーマンビー侯爵」に叙せられた。 初代ノーマンビー侯の死後、その長男ジョージ・フィップス(英語版)(1819–1890)が第2代ノーマンビー侯爵位を継承した。彼は襲爵前に自由党の政治家として活躍し、その後、ノバスコシア(在職1858-1863)、クイーンズランド(在職1871-1874)、ニュージーランド(在職1874-1879)、ヴィクトリア(在職1879-1884)などの総督職を歴任した。 現在の当主はその曾孫である5代ノーマンビー侯コンスタンティン・エドムンド・ウォルター・フィップス(英語版)(1954-)である。
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