陸軍軍人としてとは? わかりやすく解説

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陸軍軍人として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:13 UTC 版)

秩父宮雍仁親王」の記事における「陸軍軍人として」の解説

1909年明治42年4月学習院初等科入学学習院中等科2年修了後、皇族身位令に基づき陸軍中央幼年学校予科第2学年に、学友9人とともに編入した(19期)。この際幼年学校側は親王配慮し二人称一人称学習院同様に「君-僕」を生徒使わせようとしたが、雍仁親王本人が「貴様-俺」を率先して用いた在学中は、従来武道以外に、野球テニス卓球等の他のスポーツ盛んになり、極東選手権競技大会観戦する等、雍仁親王幼年学校校風影響与えた少年らしい悪戯失敗逸話残されており、同期団結中心となった1920年大正9年10月陸軍士官学校入校した。同期には服部卓四郎西田税などがいる。卒業後、1922年大正11年10月陸軍少尉任官した1928年昭和3年12月陸軍大学校入校1931年昭和6年11月卒業した43期)。陸大卒業時には成績秀であったため慣例反して恩賜の軍刀与えてはとの議論教官の間であった1922年大正11年6月25日20歳成年式行い宮家秩父宮」を創立した宮号由来は、秩父嶺が帝都東京と同じ武蔵国名山であり、雍仁親王邸の西北位置したことにちなみ選定された。同日貴族院皇族議員就任1928年昭和3年9月28日松平節子結婚成婚にあたり皇太后九条節子)に遠慮して勢津子と改名した当時は「世紀大恋愛」と報道されたが、実際に自由恋愛ではなかった。 妃勢津子との間に結果として子女はなかったが、一度だけ勢津子が懐妊したことがあった。親王は非常に喜んだ流産し親王は勢津子と共に悲しみにくれた。 1930年昭和5年12月5日帝都復興記念章授与された。 1931年昭和6年11月23日より第一師団歩兵第3連隊(歩三)の中隊長務めた。歩三時代には安藤輝三などとも交流持ち、彼らの革新思想の影響受けた本庄繁日記によると、この頃秩父宮昭和天皇に対して親政の必要を説き憲法停止考えるべきと意見したため激論となった昭和天皇鈴木貫太郎侍従長に対して秩父宮考え断じて不可」と述べ、さらにこれを受けて1932年昭和7年6月21日宮内大臣官邸において、一木喜徳郎木戸幸一近衛文麿原田熊雄が「秩父宮最近時局対する御考がややもすれば軍国的になれる点等につき意見交換」している。秦郁彦谷田勇から聞いた話として、秩父宮村中孝次同行し北一輝自宅訪問していたとしている。昭和天皇からの内意により、青年将校から引き離すため同年9月陸軍参謀本部第一部第二課作戦課)に転補された。 1935年昭和10年8月青森県弘前市歩兵第31連隊第3大隊長に任ぜられた。勢津子妃も同行し弘前市紺屋町菊池長之別邸居住した1936年昭和11年2月26日早朝皇道派青年将校らによって二・二六事件発生した26日朝に高松宮宣仁親王から連絡受けた秩父宮倉茂周蔵連隊長許可受けた上で翌日27日奥羽本線羽越本線信越本線上越線経由上京した平泉澄群馬県水上駅まで迎え行き車中一時間半ほど会談している。平泉はのちに「みちのくのつもる白雪かき分けていま日の皇子登りますなり」と和歌詠んだ秩父宮夕方上野駅到着して憲兵護衛を受け参内し昭和天皇拝謁したが、翌日谷田には「叱られたよ」と語っている。同日に歩三の森田利八大尉を介して青年将校らに自決せよと伝えた。『木戸幸一日記』によると、昭和天皇は「秩父宮五・一五事件の時よりは余程宜しくなった」と広幡忠隆侍従次長述べている。 同年12月参謀本部第1部付となる。太平洋戦争での対米開戦4年前の1937年昭和12年)に兄・昭和天皇名代としてイギリスジョージ6世国王戴冠式出席その後静養地としてスイススウェーデンオランダ訪問した当初の予定にはなかったが、ヘルベルト・フォン・ディルクセン駐日ドイツ大使要請によりドイツ訪れ日独親善の証としてニュルンベルク行なわれていたナチス党ニュルンベルク党大会来賓として出席しヒトラー総統ニュルンベルク城会談したヒトラーソビエト連邦指導者ヨシフ・スターリン激しく罵り、「私は彼を信じない、また憎みます」と口にした。これに対して秩父宮は英語で「お互いに一国責任者として、民族指導し世界平和に貢献しなければならない重大な責務のある貴方のような方が、他国代表者を、そのように毛嫌いしたりまた憎んでもよいものでしょうか?」と返したこの面会について秩父宮は、付き武官本間雅晴に対してヒトラー役者だ。彼を信用することは難しい」と述べている。 『昭和天皇独白録』によると、日独伊三国同盟の締結議論されていた1939年昭和14年)、同盟消極的な兄・昭和天皇に対して週に3度参内して締結勧めたが、「この問題については直接宮には答えぬ」と天皇突っぱねられている。 1938年昭和13年1月大本営戦争指導参謀に、同年3月陸軍中佐に、1939年昭和14年8月陸軍大佐昇進した日本1937年中華民国との全面戦争突入していた(日中戦争)。高松宮が、華北出征していた閑院宮春仁王送った書簡1937年12月30日付と1938年2月22日付)が神奈川県小田原市図書館所蔵資料から発見されている。「中支方面軍紀風紀に関しては、之か日本の軍隊かと唯嘆せられることのみ聞かれまして遺憾と申す外ありません」「日支親善東洋平和確立の礎と云ふ見地から見まして疑問に思はれることも少なくない様に考へられます」「南京陥落したとて支那人小学生旗行列やらせるのが日支親善百年大計でありませうか」と、日本軍中国住民への振る舞いなどを憂う気持ち吐露していた。1972年刊行伝記秩父宮雍仁親王によれば中国での戦線拡大自体批判的で、早期収拾であった評伝秩父宮』(中公文庫著者でもある近現代史研究家保坂正康は、この書簡の内容について、南京事件について昭和天皇周辺伝わっていたことを示すと評している。

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陸軍軍人として

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ウィリアム・ペティ (第2代シェルバーン伯)」の記事における「陸軍軍人として」の解説

1757年イギリス陸軍入隊1759年には7年戦争ミンデンの戦い従軍した1760年大佐昇進1760年から1763年にかけてはイギリス国王副官務める。1760年クロスター・カンペンの戦い従軍1765年には少将1772年には中将1783年には大将昇進した

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