陸軍軍人として
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1909年(明治42年)4月に学習院初等科入学、学習院中等科2年修了後、皇族身位令に基づき陸軍中央幼年学校予科第2学年に、学友9人とともに編入した(19期)。この際、幼年学校側は親王に配慮し、二人称と一人称は学習院同様に「君-僕」を生徒に使わせようとしたが、雍仁親王本人が「貴様-俺」を率先して用いた。在学中は、従来の武道以外に、野球やテニス、卓球等の他のスポーツが盛んになり、極東選手権競技大会も観戦する等、雍仁親王が幼年学校の校風に影響を与えた。少年らしい悪戯や失敗の逸話も残されており、同期の団結の中心となった。 1920年(大正9年)10月、陸軍士官学校に入校した。同期には服部卓四郎、西田税などがいる。卒業後、1922年(大正11年)10月に陸軍少尉に任官した。 1928年(昭和3年)12月に陸軍大学校に入校、1931年(昭和6年)11月に卒業した(43期)。陸大の卒業時には、成績優秀であったため慣例に反して恩賜の軍刀を与えてはとの議論が教官の間であった。 1922年(大正11年)6月25日に20歳で成年式を行い、宮家「秩父宮」を創立した。宮号の由来は、秩父嶺が帝都東京と同じ武蔵国の名山であり、雍仁親王邸の西北に位置したことにちなみ選定された。同日、貴族院皇族議員に就任。1928年(昭和3年)9月28日、松平節子と結婚。成婚にあたり皇太后(九条節子)に遠慮して勢津子と改名した。当時は「世紀の大恋愛」と報道されたが、実際には自由恋愛ではなかった。 妃勢津子との間に結果として子女はなかったが、一度だけ勢津子が懐妊したことがあった。親王は非常に喜んだが流産し、親王は勢津子と共に悲しみにくれた。 1930年(昭和5年)12月5日、帝都復興記念章を授与された。 1931年(昭和6年)11月23日より第一師団歩兵第3連隊(歩三)の中隊長を務めた。歩三時代には安藤輝三などとも交流を持ち、彼らの革新思想の影響を受けた。本庄繁の日記によると、この頃に秩父宮は昭和天皇に対して親政の必要を説き、憲法停止も考えるべきと意見したため激論となった。昭和天皇は鈴木貫太郎侍従長に対して「秩父宮の考えは断じて不可」と述べ、さらにこれを受けて1932年(昭和7年)6月21日に宮内大臣官邸において、一木喜徳郎、木戸幸一、近衛文麿、原田熊雄が「秩父宮の最近の時局に対する御考がややもすれば軍国的になれる点等につき意見を交換」している。秦郁彦は谷田勇から聞いた話として、秩父宮が村中孝次に同行し北一輝の自宅を訪問していたとしている。昭和天皇からの内意により、青年将校から引き離すため同年9月に陸軍参謀本部第一部第二課(作戦課)に転補された。 1935年(昭和10年)8月、青森県弘前市の歩兵第31連隊第3大隊長に任ぜられた。勢津子妃も同行し、弘前市紺屋町の菊池長之別邸に居住した。 1936年(昭和11年)2月26日早朝に皇道派青年将校らによって二・二六事件が発生した。26日朝に高松宮宣仁親王から連絡を受けた秩父宮は倉茂周蔵連隊長の許可を受けた上で、翌日の27日に奥羽本線、羽越本線、信越本線、上越線経由で上京した。平泉澄が群馬県の水上駅まで迎えに行き、車中で一時間半ほど会談している。平泉はのちに「みちのくのつもる白雪かき分けていま日の皇子は登りますなり」と和歌を詠んだ。秩父宮は夕方に上野駅に到着して憲兵の護衛を受け参内し、昭和天皇に拝謁したが、翌日谷田には「叱られたよ」と語っている。同日に歩三の森田利八大尉を介して青年将校らに自決せよと伝えた。『木戸幸一日記』によると、昭和天皇は「秩父宮は五・一五事件の時よりは余程宜しくなった」と広幡忠隆侍従次長に述べている。 同年12月に参謀本部第1部付となる。太平洋戦争での対米英開戦の4年前の1937年(昭和12年)に兄・昭和天皇の名代としてイギリスのジョージ6世国王の戴冠式に出席。その後は静養地としてスイス、スウェーデンとオランダを訪問した。当初の予定にはなかったが、ヘルベルト・フォン・ディルクセン駐日ドイツ大使の要請によりドイツを訪れ、日独親善の証としてニュルンベルクで行なわれていたナチス党ニュルンベルク党大会に来賓として出席し、ヒトラー総統とニュルンベルク城で会談した。ヒトラーはソビエト連邦の指導者ヨシフ・スターリンを激しく罵り、「私は彼を信じない、また憎みます」と口にした。これに対して秩父宮は英語で「お互いに一国の責任者として、民族を指導し、世界の平和に貢献しなければならない重大な責務のある貴方のような方が、他国の代表者を、そのように毛嫌いしたりまた憎んでもよいものでしょうか?」と返した。この面会について秩父宮は、付き武官の本間雅晴に対して「ヒトラーは役者だ。彼を信用することは難しい」と述べている。 『昭和天皇独白録』によると、日独伊三国同盟の締結が議論されていた1939年(昭和14年)、同盟に消極的な兄・昭和天皇に対して週に3度参内して締結を勧めたが、「この問題については直接宮には答えぬ」と天皇に突っぱねられている。 1938年(昭和13年)1月に大本営戦争指導班参謀に、同年3月に陸軍中佐に、1939年(昭和14年)8月に陸軍大佐に昇進した。 日本は1937年、中華民国との全面戦争に突入していた(日中戦争)。高松宮が、華北に出征していた閑院宮春仁王に送った書簡(1937年12月30日付と1938年2月22日付)が神奈川県の小田原市立図書館所蔵資料から発見されている。「中支方面の軍紀風紀に関しては、之か日本の軍隊かと唯嘆せられることのみ聞かれまして遺憾と申す外ありません」「日支親善、東洋平和確立の礎と云ふ見地から見まして疑問に思はれることも少なくない様に考へられます」「南京が陥落したとて支那人の小学生に旗行列をやらせるのが日支親善百年の大計でありませうか」と、日本軍の中国住民への振る舞いなどを憂う気持ちを吐露していた。1972年刊行の伝記『秩父宮雍仁親王』によれば、中国での戦線拡大自体に批判的で、早期収拾派であった。評伝『秩父宮』(中公文庫)著者でもある近現代史研究家の保坂正康は、この書簡の内容について、南京事件について昭和天皇周辺に伝わっていたことを示すと評している。
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陸軍軍人として
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1757年にイギリス陸軍に入隊。1759年には7年戦争のミンデンの戦いに従軍した。1760年に大佐に昇進。1760年から1763年にかけてはイギリス国王の副官を務める。1760年にクロスター・カンペンの戦いに従軍。1765年には少将、1772年には中将、1783年には大将に昇進した。
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