陸軍軍医として任官とは? わかりやすく解説

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陸軍軍医として任官

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 06:13 UTC 版)

森鷗外」の記事における「陸軍軍医として任官」の解説

1873年明治6年11月入校試問を受け、第一大学区医学校東京医学校予科修業年限2年本科含めて現在の東京大学医学部)に実年齢より2歳多く偽り、満11歳入学新入生71名。後に首席卒業する三浦守治同時期に入学)した。 定員30人第一大学区医学校東京医学校本科修業年限5年に進むと、ドイツ人教官たち講義を受ける一方で佐藤元長師事し漢方医書を読み、また文学乱読し、漢詩漢文傾倒して和歌作っていた。 語学堪能鷗外は、後年執筆にあたって西洋語用いとともに中国故事などを散りばめた。さらに、自伝的小説ヰタ・セクスアリス」で語源西洋語学習役立てる逸話記した1881年明治14年7月4日、満18歳本科卒業卒業席次が8番であり、林太郎医者役人また教育者ましてや軍人になることは考えず、なにか物書き夢見ていた。文学者として大学残って研究者になる道は閉ざされたものの、文部省派遣留学生としてドイツに行く希望持ちながら、父の病院手伝っていた。その進路未定状況を見かねた同期生小池正直(のちの陸軍省医務長)は、陸軍軍医本部次長石黒忠悳鷗外採用するよう長文の熱い推薦状出しており、また小池同じく陸軍軍医日本耳鼻咽喉科学創始者といわれる親友賀古鶴所(かこ・つると)は、鷗外陸軍省入り勧めていた。結局のところ鷗外は、同年12月16日陸軍軍医副(中尉相当)になり、東京陸軍病院勤務した。 妹・小金井喜美子回想によれば若き日鷗外は、四君子描いたり、庭を写生したり、職場から帰宅後しばしば寄席に出かけたり喜美子と一緒に出かけたとき、ある落語家長唄聴いて中座)していたという。

※この「陸軍軍医として任官」の解説は、「森鷗外」の解説の一部です。
「陸軍軍医として任官」を含む「森鷗外」の記事については、「森鷗外」の概要を参照ください。

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