陸軍軍医として任官
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1873年(明治6年)11月に入校試問を受け、第一大学区医学校・東京医学校の予科、修業年限2年(本科を含めて現在の東京大学医学部)に実年齢より2歳多く偽り、満11歳入学(新入生71名。後に首席で卒業する三浦守治も同時期に入学)した。 定員30人の第一大学区医学校・東京医学校の本科、修業年限5年に進むと、ドイツ人教官たちの講義を受ける一方で、佐藤元長に師事し、漢方医書を読み、また文学を乱読し、漢詩・漢文に傾倒して和歌を作っていた。 語学に堪能な鷗外は、後年、執筆にあたって西洋語を用いるとともに、中国の故事などを散りばめた。さらに、自伝的小説「ヰタ・セクスアリス」で語源を西洋語の学習に役立てる逸話を記した。 1881年(明治14年)7月4日、満18歳、本科を卒業。卒業席次が8番であり、林太郎は医者や役人また教育者、ましてや軍人になることは考えず、なにか物書きを夢見ていた。文学者として大学に残って研究者になる道は閉ざされたものの、文部省派遣留学生としてドイツに行く希望を持ちながら、父の病院を手伝っていた。その進路未定の状況を見かねた同期生の小池正直(のちの陸軍省医務長)は、陸軍軍医本部次長の石黒忠悳に鷗外を採用するよう長文の熱い推薦状を出しており、また小池と同じく陸軍軍医で日本の耳鼻咽喉科学の創始者といわれる親友の賀古鶴所(かこ・つると)は、鷗外に陸軍省入りを勧めていた。結局のところ鷗外は、同年12月16日に陸軍軍医副(中尉相当)になり、東京陸軍病院に勤務した。 妹・小金井喜美子の回想によれば、若き日の鷗外は、四君子を描いたり、庭を写生したり、職場から帰宅後しばしば寄席に出かけたり(喜美子と一緒に出かけたとき、ある落語家の長唄を聴いて中座)していたという。
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