台湾出征と陣没
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 05:03 UTC 版)
明治26年(1893年)11月10日に第4師団長となる。明治28年(1895年)、日清戦争によって日本に割譲された台湾征討近衛師団長として出征。ところが現地でマラリアに罹り、10月28日、台湾全土平定直前に台南にて薨去。遺体は安平から西京丸で本土に運ばれた。この際、表向きには「(能久親王は)御病気ニテ御帰京遊バサル」ということになっていた。日本到着後、陸軍大将に昇進が発表された後に、薨去が告示された。国葬に付され、豊島岡墓地に葬られた。 皇族としては初めての外地における殉職者となったため、国葬時より神社奉斎の世論が沸き起こり、台北に台湾神宮(台湾神社)、終焉の地には台南神社が創建された。また通霄神社 をはじめとする台湾各地に創建された神社のほとんどで主祭神とされたが、敗戦後にこれら能久親王を祀った60の神社はすべて廃社となったため、現在は靖国神社にて祀られている(戦後の昭和32年(1957年)10月4日に、筑波藤麿宮司(当時)の指揮により合祀される。昭和34年(1959年)に孫の北白川宮永久王も合祀)。 親王家の庶子として生まれ、幼くして都を遠く離れた江戸の地で僧侶として過ごし、一時は「朝敵」の盟主となって奥州の地を転々とし、後には陸軍軍人として台湾平定に出立するも同地で不運の病死を遂げた、この流転多い人生は古代の英雄日本武尊の人生に例えられた。
※この「台湾出征と陣没」の解説は、「北白川宮能久親王」の解説の一部です。
「台湾出征と陣没」を含む「北白川宮能久親王」の記事については、「北白川宮能久親王」の概要を参照ください。
- 台湾出征と陣没のページへのリンク