台湾原住民に対する歪んだイメージと新たな呉鳳像
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「呉鳳」の記事における「台湾原住民に対する歪んだイメージと新たな呉鳳像」の解説
前述のようにツォウ族の間で伝えられてきた呉鳳に関する伝承は、漢族の間で伝えられてきた伝承とは内容的に異なっていたと考えられ、更には台湾総督府の公的事業として編纂された殺身成仁通事呉鳳の本編の内容に、ツォウ族の伝承が反映されることもなかった。しかしながら呉鳳の逸話は教科書にも採用され、呉鳳は身を犠牲としてツォウ族の首狩りの悪習を止めさせたというストーリーが定着していくことになる。 台湾原住民が祭祀を執り行う際に生首が必要であるのに、呉鳳が以前に獲得した首の使用を指示するなどなだめすかし続けた挙句、やがて首狩りを抑えられてきた不満が爆発するに至るというストーリーの前提として、台湾原住民の祭祀には生首が必要であるとの認識があるのはいうまでもない。しかし当の台湾総督府が行ったツォウ族に対する社会調査の中で、祭祀のためとか悪疫を払うためとか、更には豊作を祈るため等の理由で首狩りを行う例は確認できないと記述されており、また、台湾原住民の研究者であった森丑之助は、その著書の中で台湾原住民は祭祀のために首狩りを行うことを聞いたことが無いと断言しており、殺身成仁通事呉鳳の本編発表以降の呉鳳像を支えている一つの柱である、台湾原住民の祭祀に生首が必要であるとの認識は誤りであると考えられる。 その上、定着した呉鳳のストーリーには更なる問題がひそんでいた。台湾先住民が人を殺すことを何とも思わない、血に飢えた人々であることが首狩りという野蛮な風習の根源にあると見なしたことである。このような血に飢え、人の首を狩る欲求ゆえに首狩りという風習が行われているとのいわば生物学的な解釈は、民俗学の中で否定されている。首狩りという風習はまず、敵対する部族、勢力との抗争における復讐としての意味合いとともに、首狩りという危険な行為を遂行することによって、子どもから大人として認められるようになるといったいわば成人儀礼の一つであるとか、自らの武勇を示して部族社会の中で尊敬を得るなど、文化的に見ても様々な意味合いがあると考えられている。 いずれにしても理蕃五カ年事業という台湾原住民制圧事業の最中に編集された殺身成仁通事呉鳳の本編は、人を殺すことを何とも思わない、血に飢えた台湾原住民は祭祀に生首が必要であるとの前提によって編纂された。こういった偏見は、漢族の中で語り伝えられてきた呉鳳の伝承内でも見られるものであり、異文化認識のギャップという一面があるのはいうまもない。しかし清の統治時代に記述された海音詩、雲林縣采訪冊には首狩りの習慣についての言及は無く、殺身成仁通事呉鳳の本編は台湾原住民の野蛮さ、残酷さをより強調した記述となっていることは明らかである。その一方で呉鳳の事績が不仁を化し、無尽の富源を切り開く端緒となったと称揚し、結果として理蕃五カ年事業に対する原住民の抵抗を断罪するイデオロギーを示している。この人を殺すことを何とも思わない、血に飢えた台湾原住民は祭祀に生首が必要であるとの極度に歪められたイメージは、教科書内の呉鳳の記述にも引き継がれていく。 なお日本統治時代の台湾原住民は漢族、日本人とも異なる教育体系下にあり、台湾原住民向けの教科書には呉鳳は教材として採用されなかった。つまり日本統治下、台湾原住民は学校で呉鳳について学ぶことは無かった。また呉鳳の死によってツォウ族から首狩りの習慣が廃絶したという話も虚構であり、その後も首狩りは継続し、日本統治時代になってようやく終焉を迎えたと見られている。結局のところ呉鳳の物語は、一方の当事者であるべきツォウ族の伝承が反映されない中で、台湾在住の日本人と漢族のために日本人が作り上げたものであり、ツォウ族のあずかり知らぬ中で構築された虚構の物語という一面を持つことになった。
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