台湾出兵の計画
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「村山等安の台湾出兵」の記事における「台湾出兵の計画」の解説
江戸時代になってからも、高山国は日本の貿易船にとって重要な船舶寄港地であり続けた。1612年(慶長17年)には京都の商人津田紹意に澎湖諸島への渡航を許可する朱印状が発給されている。1615年(元和元年)7月、村山等安に対して高砂国渡航許可の朱印状が発給されたが、それは単なる渡航許可証ではなかった。朱印状交付の翌月、リチャード・コックスは、等安に対して中国への出兵計画の有無について確認する書状を出しており、その後まもなく、コックスは等安が台湾出兵の準備を進めている事実を把握するに至った。 村山等安の台湾出兵の理由は、 豊臣秀頼捜索のため 台湾との通商貿易 台湾在住民による遭難船襲撃の復讐 村山等安が家康に対する信用回復を狙ったもの 台湾を対中国貿易の根拠地として利用するため の5点が、当時から取り沙汰されていた。 豊臣秀頼捜索のためというのは、大坂夏の陣で自害したとされた秀頼が、実は台湾など南方に逃れていたとの風説が流れたために持ち上がった説であるが、これは等安が本来の出兵目的を隠蔽するために偽情報を流したものともみられ、事実とは考えられない。台湾との通商貿易、台湾在住民による遭難船襲撃の復讐も理由としては考えにくいとされている。一方、1615年頃にはキリシタン弾圧が強まっており、家康の信任を失いつつあったと考えられる等安が、信任回復の起死回生策として台湾出兵を断行したとの説は当時から有力であったが、同説では台湾を出兵先として選択した理由がはっきりとしない。 結局、台湾出兵の主目的は、5番目の対中国貿易の根拠地として利用するためであると考えられている。室町時代に行われていた明との勘合貿易が途絶して以降、その復活に対する期待は大きかった。台湾出兵の費用はすべて等安の自弁であった。それまで獲得した地位や境遇の維持に不安を感じるようになっていた等安は、対中国貿易の根拠地として台湾を活用することを主目的として、台湾出兵を計画、実行したものと推測されている。
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