台湾出兵との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 00:26 UTC 版)
琉球藩の設置に遡る明治4年11月8日、琉球御用船の船員が漂着先の台湾で台湾原住民・パイワン族に殺害された、いわゆる琉球島民殺害事件が起き、生存者が明治5年6月7日、清国経由で那覇に帰着すると言う事件が起きていた。政府は、事件に対し清朝に厳重に抗議したが、原住民は「化外の民」(国家統治の及ばない者)であるという清朝からの返事があり、これを受け、政府は1874年(明治7年)5月6日より台湾出兵を行った。これに清側は直ちに抗議し、撤兵を強く求めた。明治政府は同年9月、「和戦を決する権」を与えられた大久保利通を全権として北京に派遣。清と交渉し、難航の末、清は日本の出兵を「義挙」と認め、50万両(テール)の賠償をすることで事件は決着した。これは、琉球の帰属問題で日本に有利に働くが、清は琉球の日本帰属を正式に承認したわけではなかった。
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