台湾出兵、そして清仏戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/01 15:18 UTC 版)
「福建艦隊」の記事における「台湾出兵、そして清仏戦争」の解説
1871年(同治10年)、遭難して台湾に漂着した宮古の島民54名が原住民に殺害された (宮古島島民遭難事件)。日本政府は清朝に賠償請求したが、清朝は原住民には責任が及ばないとして責任を回避したため、1874年(同治13年)に日本は居留民保護を名目に出兵した(台湾出兵)。この時清朝海軍に日本の装甲艦「扶桑」「金剛」「比叡」に対抗できる艦はなかった。この事態に清朝の海防意識は高まり、直隷総督の李鴻章は「数千年に一度の非常事態」と上書して400万両の海軍建設予算が認められた。これによって編成された福建艦隊は、最盛期には11隻の軍艦を保有していた。 1885年(光緒11年)の清仏戦争の緒戦の馬江海戦で、アメデ・クールベはフランス極東艦隊を率いて福建艦隊を攻撃し、旗艦の揚武は魚雷により座礁、福建艦隊の9隻が撃沈されて、艦隊はほぼ壊滅した。折しも前年には左宗棠が死去したこともあって以後福建水師の政治力は低下、以後も艦艇の建造は続いたが、独立した艦隊としての活動はあまり見られなくなった。清仏戦争後、福建艦隊はたった2隻の船を補充しただけだった。 1891年(光緒17年)以降、清朝廷は支出削減によって海軍兵器の購入を取りやめた。これによって福建艦隊は艦艇と経費の両方の不足に悩まされ、艦隊の維持さえ難しくなった。日清戦争に福建水師は参加していないが、この戦争で日本海軍に鹵獲された「平遠」(広東水師から加勢した)「広丙」は福州船政局製の軍艦である。 1909年(宣統元年)、清政府は福建艦隊と広東艦隊・北洋艦隊・南洋艦隊を統合したうえで巡洋艦隊と長江艦隊に再編成した。独立した福建艦隊はここで解散した。
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