台湾原住民との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/17 14:39 UTC 版)
秀吉が「高山国王」宛の書状を作成した16世紀頃の台湾には全島を統一した国家が存在せず、南方のオーストロネシア語族に分類される台湾原住民の諸民族が集落を形成していた他は倭寇の根城が点在する状態であったと考えられている。17世紀には鄭成功がオランダ東インド会社を追放して全島統一を果たし、鄭氏政権が20年余り続いたが1683年に清の総攻撃を受けて鄭氏が滅亡した後は漢民族の入植が進められるようになった。 19世紀半ばには台湾全島で多数派を形成していた漢民族は台湾原住民のうち平地に住み漢化が進んだ民族を平埔番(へいほばん)、山岳地帯に住み漢化を受け入れなかった民族を高山番(こうざんばん)と呼称したが、いずれも複数の民族を漢民族の視点から区分する(多分に侮蔑のニュアンスが強い)呼称であり特定の民族を指すものではない。1895年(明治28年)からの日本統治下では、平埔番が平埔族(へいほぞく)と呼ばれるようになった。高山番は初め生蕃(せいばん)と呼ばれていたが「蕃」の用字は差別的な意味合いを含むため、1935年(昭和10年)に秩父宮雍仁親王の要請で高砂族(たかさごぞく)へ改称されている。 1945年(昭和20年)に第二次世界大戦で日本が敗れて台湾の領有を放棄した後(台湾光復)、国共内戦に敗れて台湾へ逃れた中国国民党政権は日本統治下で高砂族と呼ばれていた台湾原住民を高山族(こうざんぞく、カオシャンぞく)と改称して同化(漢化)政策を推進した。この「高山族」は清朝で「高山番」と呼ばれていたものを「番」から「族」に置き換えたに過ぎず、日本で台湾を指す呼称であった「高山国」と直接の関連性は見出せない。台湾民主化の流れで1996年に原住民族委員会が発足して以降は高山族を「山地原住民」、平埔族を「平地原住民」とそれぞれ呼称するようになっている。
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