モントセラト占領 (1667年)
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「クロード・ド・ルー・ド・サン=ローラン」の記事における「モントセラト占領 (1667年)」の解説
1667年1月17日、アントワーヌ・ルフェーヴル・ド・ラ・バール中将がセントクリストファー島に着任した。彼は島に来る前に、イギリス領モントセラトの海岸線を調査して、これに侵攻する計画を立てていた。サン=ローランはラ・バールから、正式に王の署名の入った総督任命書を受け取った。この時、彼のもとにあった軍事力は、500人の兵と25隻のバーク船であった。モントセラト侵攻の総指揮はラ・バールがとることになり、サン=ローランはサン=レオン将軍率いる陸戦隊のもとで戦うことになった。1月29日、セントクリストファー島からフランス艦隊が出航した。 2月4日、艦隊はモントセラトに到着した。総督ロジャー・オズボーン率いる守備兵の中に多数のカトリック・アイルランド人が含まれ、不満分子となっていることを知ったラ・バールは、上陸を数日遅らせることにした。この時のフランス軍の総勢は、サン=ローラン率いるセントクリストファー民兵500人と、サン=レオン将軍率いるナヴァール・ノルマンディーの正規兵500人だった。島に上陸したフランス軍はイギリス軍を探したが見当たず、代わりにオズボーンの妻や市民を捕らえて、オズボーンに降伏を迫った。結果、フランス軍は大量の武器弾薬や奴隷、馬、ウシを手に入れた。また旧モントセラト守備兵のうち2000人のアイルランド人が、シュール・ド・プライユ暫定総督のもとでフランス軍に参じた。
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