モントゴメリー隊の攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/06 22:48 UTC 版)
「ケベックの戦い (1775年)」の記事における「モントゴメリー隊の攻撃」の解説
12月30日に嵐が起こり、モントゴメリーは再度攻撃命令を出した。その夜、ブラウンとリビングストンは民兵中隊を率いて割り当てられた場所に向かった。ブラウンはケイプダイアモンド稜堡の側、リビングストンはセントジョンズ門の外だった。午前4時から5時の間にブラウン隊が所定の場所に到着したとき、他の部隊に信号を送るための火を焚かせ、その部隊とリビングストン隊がそのぞれの標的に対して発砲を始めた。モントゴメリーとアーノルドはその炎を見て、ローワータウンへの進軍を始めた。 モントゴメリーはその部隊を外郭防御物に向かう急勾配で雪が積もった道に進ませた。風雪はブリザードに変わったので、進軍は容易ではなかった。モントゴメリー隊は遂に外郭防御物の柵に辿り着き、大工達からなる前衛隊が鋸で壁に穴を開けた。モントゴメリー自身が2つめの柵を切り倒すのを助け、50名の兵士を率いて2階建ての建物に向かう道を進んだ。この建物は市の防御物の一部であり、実際にはマスケット銃と大砲で武装した15名のケベック民兵が入るシェルターになっていた。この守備隊が至近距離で発砲し、ぶどう弾の破裂によって頭を射抜かれたモントゴメリーが即死した。生き残った前衛隊の数名が柵の所まで逃げ戻った。アーロン・バーなど数名だけが無傷で逃げ延びた。モントゴメリー隊の士官達の多くがこの攻撃で負傷した。数少ない無傷の将校の一人が残存部隊をアブラハム平原まで誘導し、モントゴメリーの死体は後に残された。
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