モントリオールの状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/09/13 07:58 UTC 版)
「ロングポイントの戦い」の記事における「モントリオールの状況」の解説
1775年5月にタイコンデロガ砦を奪われた後、カールトン将軍は植民地全体を守るためにわずか800名の正規軍しか持っていなかったので、セントジョンズ砦に兵力を集中させることにし、砦に約500名の正規軍と民兵、インディアン合わせて約250名を入れた。残りの部隊は五大湖周辺のフロンティアの砦に分散し、モントリオール、トロワリヴィエールおよびケベック市の守りにはかなり少数の守備隊を置いただけだった。1775年の夏、カールトンは地域住民の中からそこそこの民兵隊を立ち上げようと試みたが、アメリカ側の情報宣伝が功を奏し、また特にトマス・ウォーカー、ジェイムズ・プライスおよびジェイムズ・リビングストンのようなパトリオットのシンパによる扇動のために、その成果は限られたものとなった。カールトンは7月までにモントリオールを支えるだけの民兵が集まったことで満足したが、アメリカ側にイギリス軍の準備状況を伝達する扇動者達の行動を止めるための行動はほとんど採らなかった。
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